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カテゴリー: ボケ、ブレ、アレと写真表現の歴史

大口径レンズの誤解:大きくボケればよいとは限らない、少し絞ったほうが支持を受けることも多い:【ボケにまつわる誤解と都市伝説】

さて、カメラメーカーはボケが大きくなりますといって、85mm 1.2や、135mm F1.8を買うように誘導することが多いですが、バカが書き込むとかも呼ばれたりする、ステマコムならず、価格コムでは、ニコンのZ 135mm F1.8が、36万越えの実売にもかかわらず、レンズ売り上げ3位にランクされたなど、ロシアも真っ青な日本の情報操作の疑いが見えてきている現実

さて、大きなボケが得られることが、写真上達と勘違いさせるネットや写真関係の教育機関に、盲目にされている人が多いのかもしれません

まず、ニコンは、ミラーレスのZシステムを始めるにあたり、24mm, 35mm, 50mm, 85mmといったレンズに、今までとは異なり、

F1.8のレンズを投入しました

ニコンは、一眼レフFマウントのころは、F1.8のレンズは、買いやすい廉価版の扱いで、小さく軽くすることも重視され、使うガラスの質も低いものが選ばれたりで、収差の補正はそこそこレベルにされ、性能はより高価なF1.4より劣るように作られていましたが、

新規のマウントシステム、Zマウントになって、ニコンが最初にやったのは、今までの倍近い値段で、高性能ガラスと、レンズを多数使ったF1.8レンズを出すことでした。小型化もしなかったので、F1.8にしては高すぎないかという声はあったものの

さて、とりあえずは、F1.8シリーズを出した後、一部のスペックオタがF1.2や、F1.4のないレンズラインナップはそそらないとか騒ぎ続け、最近は、ニコンも50mm F1.2, 85mm F1.2, 135mm F1.8という大口径レンズをそろえて、ボケの大きさが表現に生きるを、アピールしていますが、

実際に見る人たちは、そうした50mm F1.2や、85mm F1.4などの大口径単焦点レンズで大ボケさせた写真を、好ましいものと思っているか?

という話になると、カメラメーカーやステマ君たちの宣伝とは、逆の結果も見えてくることを紹介したのが、

Andrew Goodcameraさん

Bokeh is overratedボケは過大評価されている

この動画の中で、

動画3:30

F1.2とF1.4の撮影では

F1.2がよいという人 14票

F1.4がよいという人 29票

動画4:05 の、以下の画像では(*画像直リンクは、営利目的で大量に行った場合不法行為を形成する場合があるので注意)

https://petapixel.com/assets/uploads/2018/10/difference.jpg

F1.2で撮影したもの 支持票5

F2 で撮影したもの支持票25票

と、少し絞ったときのほうが好ましいと感じる人が圧倒的

面白いのは、F1.2で撮影し、背景を大ボケさせた写真が圧倒的な支持を集めることはなく、もう少し絞ってボケを抑えめにしたほうに人気が出る傾向がある

動画5:25

F1.2で背景を大きくボケさせたもの 6票支持

F2.8で、ボケを控えめにしたもの 39票支持

F1.2で大ボケさせたもののほうが、F4まで絞って背景ボケを抑えたものより圧倒的な差で支持を得たのは、

動画5:55

の比較(32:15)

動画6:05 では、犬の写真で背景を大ボケさせたF1.2での撮影写真より、背景ボケを抑えたF5.6での撮影(*画像直リンクは、営利目的で大量に行った場合不法行為を形成する場合があるので注意)

https://petapixel.com/assets/uploads/2018/10/bokehoverrated-1536×806.jpg

なんと、F1.2で背景を大ボケさせた写真(支持票5)より、F5.6まで絞った写真のほうが支持票42と圧倒的に強いという結果となり

50mm 1.2, 85mm F1.2, 105mm F1.4, 135mm F1.8, 200mm F2などの超大口径レンズで、背景を大きくぼかしたからといって、

見る人たちの共感がえられるとは限らない(モデルとかのほかの要素のバランスとか言った複雑な要素もある、ボケが大きすぎてモデルよりボケのほうが主役になるのも、意図によってはよくない場合もある)=ボケが大きいのがよいのじゃあ~

と無理に飛びつく必要は必ずしもない

極限のボケが必要な一部の特殊用途のためのレンズということを、散財する前によく考えましょうw

Bokeh is Overrated: Blurry Isn’t Best

Oct 25, 2018

Danea & Andrew

Petapixel

https://petapixel.com/2018/10/25/bokeh-is-overrated-blurry-isnt-best/


背景が大ボケしているように見えるファッションモデルの撮影も、実際はF8,F11、時にはF16まで絞っていることが多いのは気を付けておきたいところです

レンズとボケの演出のための絞りの値で、よくある誤解【ポートレート撮影とF値の関係】

下の記事のグラビアモデルのポートレート、F1.2どころか、F2、F2.8すら使われず、もっと絞ってあるのが現実(F5~F11)

A Look At Swimsuit Photography From the Work Of Pro Lensers

Vincent T Nov 27, 2018

https://medium.com/hd-pro/a-look-at-swimsuit-photography-from-the-work-of-pro-lensers-3d93f1d567b0


135mm F1.8単焦点レンズ、ポートレート撮影に本当に必要かどうかを買う前に考えよう【機材ガイド】「大きなボケが主役になってしまう」とよくない場合があることに注意

多くの人は、まず85mmあるいは、70-200mm F2.8などの望遠ズームを買うほうが無難。冷静に必要か考えよう。ニコンNIKKOR Z 135mm f/1.8 S Plena(S-Line)【メーカーやネットステマに踊らされないレンズ選び】

50mm F1.2, 85mm F1.2, 135mm F1.8のパースやボケの違い 【レンズの焦点距離の違いによる特徴、フルサイズカメラでのポートレートレンズの焦点距離】

ポートレート写真は背景をぼかすのがセオリー?【写真にかかわる怖い偽科学】ボケではなく、色や明暗差を利用して、モデルを背景から切り離す手法も多数使われる

太陽やライト(光源)の位置や配置の理解と生み出す描写の学習は、カメラやレンズの性能差に云々するより大事なこと【ライティング学習】

光線を読むとか、あいまいな言葉で表現されることが多いですが、

2020年現在売られている、通常の撮影条件で、使えないほどひどいレンズは、名の知れたメーカーのものではほとんどないので、

写真は、光線の配置と位置で表現する

という基本を理解しておきましょう

まず、太陽光だけで人物撮影をしようという場合、太陽が傾く時間(朝10時前ごろとか、昼2時以降とか)からのほうが推奨されます。太陽が低い位置になることで、レフ板の反射の都合など、いいことが多いからです(昼間近くだと、日陰や紗幕パネルなどの手助けがあるほうがいい)

人物だけではなく、風景でも太陽が傾いた時間から撮影するのはセオリー


*3DCGソフトでも、HDRIなどの環境マップを使う場合、まずは日暮れ近く、あるいは日の出後の、太陽が地平線に近い位置の環境マップHDRIを手に入れたほうが、ダイナミックな3Dポートレートが得やすい (完全無償で権利放棄の日の出、日没近くのHDRI環境マップは、HDRIs: Sunrise/sunset: https://polyhaven.com/hdris/sunrise-sunset)

まあ、ライティングの理解は、写真のみならず3DCGでも重要で、3Dに詳しい人なら、写真の勉強に3DCGを使うのもありな時代です


ちなみに以下は、太陽が地平線近くにあるHDRI環境マップを使い、モデルと太陽の位置関係による描写の差を実験したもの

上三枚は、太陽がモデルの前側にあるので、モデルが平べったく描写され、後ろ二枚は太陽がモデルの後ろ側にあるので、やや立体感が出ている

レンズの性能云々より、こうした光線の位置による描写の違いのほうが、作品作りには大きいので、

自分の撮影地などでの、太陽の位置などをよく観察するなどに時間を費やしましょう

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写真レンズのボケ表現のこだわりは、日本起源であるという都市伝説【学校の怖いにせ科学の話 レンズのボケと写真表現の話】The True History of Bokeh

ピントが外れた部分のボケ描写に特にこだわるのが日本の写真文化であったという都市伝説が、近年日本の大学の学者とかいう三文教師とか、ライターなど、頭のぼけた昭和の低学力(仕事の学力小学生世代)にいますが、

1:20世紀初頭まで、レンズ設計はダブレット(二枚構成あるいは、二群4枚)が関の山だったので、

絞りを開けるとボケがぐるぐるになり、絞らないと背景が安定しないレンズだらけで、

個別のレンズの個性的なボケを評価する土壌が出来上がるのは、いろいろな近代レンズのもととなる光学ガラス構成のレンズが出回る、20世紀初頭前後になってからで、

2:1902年に登場したドイツ改良ヘリアー(Heliar)型光学レンズHeliar Lens F4.5が市販されると、その「ボケ」の良さで、当時の欧米のポートレート職業写真家たちの間で大人気となった

歴史は、

ボケ(Bokeh)の用語起源【写真撮影】The Origin of Bokeh in Photography; Flou (French) vs Bokeh(Japanese)

1890年ごろから、1930年ごろまで顕著だった、ソフトフォーカス的な手法が目立ったピクトリアリズム(絵画主義)の時代:写真をぼかす表現技法の歴史 ボケと写真

日本語のBokeh(ボケ)が、写真のピントの合っていない領域の描写を示す言葉となった経緯【ボケはあいまいさを尊ぶ日本の文化が写真に反映されたというバカ学者・ライターたちを検証】フランス語のFlouと日本語起源のBokeh

で話をしてきました

要は、ボケは日本の特有の文化のような、妄想を振りまく三文学者やライターがいかに妄想の世界で生きているかがわかるものです。

まあ、レンズ設計の違いによるボケの質の違いを、多くの人が評論できる土台は、ライカ判などの小型カメラが普及する、さらに写真がより一般人の手に届きやすくなる1930~1950年まで、存在しえなかった

3:19世紀にはレンズをわずかにピントを外して、微妙にボケさせることで、輪郭のきつくない、自然な柔らかい輪郭を生み出す手法が、英国やフランス、欧米で、画家や、画家から写真手法を習った人たち(ピクトリアリズム絵画主義とも呼ばれる)に、はやっていて、職業写真家たちからの猛烈な攻撃を受けながら

ほかの美術家たちの支援を受けて、1財産できた人もいました

その一人が、Julia Margarete Cameronという英国人。以下のように、常にピントを全部ぼかすのではなく、シャープなピントのある部分のある写真も撮っていましたが、わずかにピントをずらすことで生じる「ピンボケ」を生かしたソフトフォーカス風の写真を多数撮影

May Day by Julia Margaret Cameron in1866 日本では著作権消滅 Public Domain in Japan

写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち

証拠はないですが、19世紀は特に画家と写真家は相互に学びあっていたので、初期の写真レンズの開放絞り付近の渦巻きボケにヒントを得て、19世紀後半あたりからの絵画の印象派の作風ができた可能性もあります(今では悪いボケとされるぐるぐるボケに、当時の絵画の画家たちが美を見出したのか?)

ボケの歴史:写真と絵画の相互影響、印象派の作品と初期写真レンズの渦巻きボケ表現

ちなみに、批判を受けながらフランスで19世紀中ごろ、ボケブレを使った写真を撮影していたCharles Nègre(1820 – 1880)の写真

by Charles Nègre(1820 – 1880 France)ボケのみならず、ブレもあります。著作権切れ Public Domain in Japan

19世紀中ごろ以降から活発になったフランスなどの印象派の絵画のヒントになった可能性はあります(本人たちが、その画風が写真から影響されたとかいう日記でも残ってない限り直接の証拠はない)

ちなみに、印象派の代表格の一人、クロードモネ(Claude Monet, 1840年11月14日 – 1926年12月5日)

モネ 散歩、日傘の女 1875 La Promenade, la femme à l’ombrelle

てなわけで、

日本人が写真のボケ表現に特別造詣が深い文化を持っていたというのは、かなり笑わせる都市伝説で、オタ話を真に受けているめでたい文化人が日本に多すぎとも言えます

ただ、写真は隅々までシャープでなければならないとする、写真技術誕生後から大きな勢力であった「写真」=記録主義者が、職業写真家協会などでは19世紀は支配的で、ボケなどは技術的欠陥、アマチュア写真家のやることととして排斥していました(ただ、ボケ志向の写真家が、プロ協会の会員になったりするのを拒否されるわけではなかった)。

20世紀にはいると、カメラの低価格化と銀塩フィルムの普及や現像サービスの普及に伴い、アマチュア写真家が激増し始め、彼らが、隅々までシャープな写真にこだわるプロ写真家たちに対抗する勢力にまで成長し、フランスのこうした人たちは、ピントが合っても、ボケたようにソフトに写るソフトフォーカスレンズの開発や販売まで行います。

ブレを異端とする声が一番大きかったフランスのパリにも、1920年代前後には、ボケ技法を堂々売りに出す写真館などが続々建てられるようになります。

しかし、主に職業写真家の抵抗は長く続き、アメリカのクラインWilliam Klein, 1926年4月19日 – 2022年9月10日が、1956年にボケ、ブレを前面に出した、ニューヨークの写真集を出版し、1957年に、かつて世界で一番プロカメラマン業界がボケ写真に批判的だったフランスでの、写真集に与えられるPrix Nadar賞を受賞した後、大反響となった後でも、

1970年くらいでも、ボケを異端視する勢力は強く、21世紀になっても、特に風景写真は隅々までピントが合ってシャープであるのが望ましいとかいう、カルト文化として残っています。

まあ、20世紀の風景写真の巨匠といわれたアンセル・イーストン・アダムスAnsel Easton Adams, 1902年2月20日 – 1984年4月22日)は、以下のようにパンフォーカス主義者でしたし

The Tetons and the Snake River (1942) Grand Teton National Park, Wyoming. National Archives and Records Administration, Records of the National Park Service. (79-AAG-1)、By ANSEL ADAMS(1902 – 1984) Adams was employed by the US Government to take this picture.Under section 105 of the Copyright Act of 1976, therefore, this photo has no copyright. **アンセル・アダムズは1989年に死んだので著作権はアメリカでは有効ですが、この写真に関しては、アメリカ連邦政府に依頼された記録写真撮影の仕事で撮影されたもので、米国の連邦著作権規定により、著作権は生じないことになっており、パブリックドメインの扱いです(日本の法律ではそうならないとか言い出しても、元のアメリカの権利者が法律で著作権放棄しているので、著作権侵害は生じない)日本だと、旧著作権法の写真著作権、撮影または公表時13年(1970年末までの期限が来ていれば、そこで著作権消滅)と、サンフランシスコ平和条約の戦時加算約10年で、1946以前あたりに撮影されたアンセル・アダムズの写真は日本では著作権は消滅しているとも言えます

どうしても、写真は科学記録の手段であるという側面もあるため、これを聖典のように祭り上げてしまい、写真も絵画と同じく創作の手段である、という。これもまたれっきとした科学的事実に目をそらす人たちが多いのも、ボケアレルギーのようなことをしゃべるプロ写真家が多い理由なのかもしれません

また、ボケに寛容な言論が増えてきたのは、カメラメーカーレンズメーカーがより高く売れる、ボケやすい大口径レンズを開発し、それを売りたいので、19世紀や20世紀前半ごろとはことなり、

ぼける写真=素敵

という風潮を広めるようになったのも、一因でしょう


もともと画家たちのグループは、1830年以降台頭してきた写真に興味を持ち、ドガなどは、モデルに窮屈なポーズを長時間させて、モデルたちから不評だったので、自分でモデルにポーズをとらせて写真を撮るまでになっていたし、その前のドラクロワは、自分では撮影しませんでしたが、知人(姓が同じなのでたぶん親類)にモデルなどの写真を撮らせて自分の絵画の参考資料にしていましたが、

画家たちは、

写真家は、全面ピントが合った、不自然なシャープネスと解像にこだわっているが、

そんな不自然なエッジの立つシャープなものは自然界に存在していないのだから

写真は偽りの記録であるとまでいう人も珍しくなかった

一方の写真家は、商業写真としては絶対シャープ、パンフォーカスは基本であるという立場をとりながらも、アート作品として風景写真を考えるなら、過剰なシャープさをありがたがっている写真家たちの在り方はおかしいと理解を示す人もFrancis Frith(England 1820-1899)などにいました

1890年Peter Henry Emersonが出版した、写真の芸術作品としての限界を認めた「The Death of Naturalistic Photography 自然主義写真の死」写真は芸術かの議論の歴史

というわけで、

繊細な日本人が、写真レンズの生み出すボケの美を独自に発展させ、それがボケという言葉となって、海外でBokehとして広く広まった

とか言ってるのは、

夢のお花畑の可能性がありますw


風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】

1839年に最初に商業化されたカメラに搭載の一群二枚のアクロマートレンズDaguerreotype Achromat 2.9/64の復刻版レンズ

1890年Peter Henry Emersonが出版した、写真の芸術作品としての限界を認めた「The Death of Naturalistic Photography 自然主義写真の死」写真は芸術かの議論の歴史

1830年代にダゲレオタイプの発明で、実用的な写真技術が普及し、湿板、乾板をへて、フィルムの登場で一気に庶民にも普及していきますが

当初から、写真技術を絵画と同じような表現の手段として使う試みが、画家たちやその影響を受けた人たちによって行われてきました

ピクトリアリズム絵画主義とも呼ばれ、日本のそれは1890年あたりから1920年代後半までの、ソフトフォーカス的な描写を基調としたアマチュア写真家の流行と、なんか限定された盛り上がりだったようにも時としていわれますが、実際はいろいろな流儀、例えば合成写真なども含めた表現手法で、1830年代末期には、ロマン主義画家たちが、当時の写真家のやってる過剰なシャープネス追及をおかしいと言い出してからずっと続いている流れです

その流れを汲む、自然主義写真を主張したのが、英国のヘンリー・ピーター・エマーソン(Peter Henry Emerson(13 May 1856 – 12 May 1936)でした

彼は目に見える光景と似た風景を再現するために、主題のピントをわずかに外す手法を提唱していましたが ソフトフォーカスレンズがない時代には、普通に使われた手法でした. すなわち、かすかに暈けさせて、自然なエッジにする、ボケを作画に生かす手法で、日本の文化「暈け」から、写真のあいまいさを表現する独自のボケ文化が発展しなどというたわごとをしゃべってる、一部学者たちの、脳は精密検査したほうがよい

彼は、写真を絵画のような芸術の手段として使うことを提唱し、彼の作法をNaturalistic Photography(自然主義写真)と呼びましたが、

1860年代には著名だった英国の旅行写真家Francis Frith(England 1820-1899)などの主張の流れを汲んだものであるといえ、別段彼が特異な存在でもなかった。まあ、エマーソンの時代にはアマチュア向け写真雑誌などが普及しだして、彼も色々書いたので、前の時代の人よりその議論が注目をあびただけです

彼は当時の写真の流れ、シャープで、不自然なエッジが出るような写真をありがたがる風潮は、実際の目に見える光景とは異なるもので、アートとして写真を見る場合には、逆に有害であるという主張を書いていましたが

1890年には、その、写真は芸術創作の手段であるという、持論を引っ込める冊子を出版します

それが

The Death of Naturalistic Photography [1890]自然主義的写真の死 [1890]

by Emerson, P. H. (Peter Henry)

https://archive.org/details/1890Death_naturalistic_photography-BP21-6

https://ia804607.us.archive.org/16/items/1890Death_naturalistic_photography-BP21-6/BP21-6-RPS.pdf

現在は著作権切れなので、このサイトでも公開しますが、

A RENUNCIATION. とある棄却

To all Photographers. すべての写真家たちへ

OVING Brethren that were, I salute you. I owe you one apology, oh! my friends, for in the earnestness of my heart I fartly misled you. You, who stuck by me in storm and stress I shall never forget—if any of you, after this renunciation, seek advice, ask and you shall receive of my best. You, enemies, who will now rub your hands with small-souled glee, rub on, till it all ends in imaginary soft-soap. You, whom I have in mistaken zeal attacked, pray forgive and forget.

And now list. I, saner than ever, renounce and abjure all theories, teachings and views on art written, and first promulgated by me in sundry works, articles, etc., and finally collected in a volume, entitled ‘‘ Naturalistic Photography.” I’cast them upon the dust-heap.そして今リストします。 これまで以上に正気になった私は、最初に、私によって書かれ、さまざまな著作や記事などで広められ、最終的には「自然主義的写真」と題された大冊にまとめられた、芸術に関するすべての理論、教え、見解を放棄し、棄却します。 私はそれらを塵の山の上に投げました。

I am for the present and future neither idealist, realist, naturalist, nor impressionist—photographic impresstonist, indeed ! —as though ALL graphic artists were not impressionists, and as if the photographic process could give aught but transcripts more or less literal. Shall I forsooth explain this burning of books ?

List, you who have ears to hear and eyes to see.

In the fulness of my heart I dreamed a dream.
I thought art might be taught by writing. I was wrong, I confess. I, even I, “the lover of nature,”—everyone is that now—preached that all art that did not conform to ‘‘truth to nature” principle was bad—that was a fatal sermon to many. From this followed again the idea — mistaken, alas ! —that photography pure,—(not impure, on rough papers, touched up by clumsy hands) — was an art surpassing all black and white methods. Eheu! That this was ever believed !

However, I was sincere, enthuSiastic, but mistaken, and I was and am no amateur.
I have by the sweat of my brow learned, under a master, something of this thing they call art. Being no amateur, I have therefore left the Camera Club, the home of the “amateur.” But ye reasonable ones in photography — some of you ave that, true and worthy sons of the goddess Science, who has little to do with the goddess Art—
you will ask, and with right, why this thusness ?

I respect you true workers in science—ye Abneys, Dallmeyers, Hurters, Driffields, Vogels, Jones, Harrisons, Bolas, Waterhouses, Eders, and others. I will tell you, for the vulgar mob of pseudo-scientists have done naught but prove their ignorance and Show signs of the itch … the itch for publicity and venom.

To you, then, who seek an explanation for my conduct, Art—as Whistler said—is not nature—is not necessarily the reproduction or translation of it—much, so very much, that is good art, some of the very best—is not nature at all, nor even based upon it— vide Donatello and Hokusai.そこで、私の行為の説明を求めているあなたへ、ホイッスラーが言ったように、芸術とは、必ずしもその複製や翻訳ではなく、非常にそれが良い芸術であり、最も優れた芸術の一部であるということです。 —自然ではまったくなく、自然に基づいていることさえありません—ドナテロと【日本の浮世絵の葛飾】北斎を参照してください。

The limitations of photography are so great that, though the results may and sometimes do give a certain esthetic pleasure, the medium must always rank the lowest of all arts, dower than any graphic art, for the individuality of the artist is cramped, in short, it can scarcely show itself. Control of the picture is possible to a slzght degree, by varied focussing, by varying the exposure (but this is working in the dark), by development, I doubt (I agree with Hurter and Driffield, after three-and-a-half months careful study of the subject), and lastly, by a certain choice in printing methods.写真の【芸術表現手法としての】限界は非常に大きいので、その【撮影と現像プリント】結果はある種の審美的な喜びを与えることもあるし、時には実際に与えることもあるが、その媒体は常にすべての芸術の中で最下位に位置しなければならず、アーティストの個性は【写真というものの制約下で自由度が低く】窮屈であるため、【作者が自分の意思をより自由に行使できる】グラフィックアートよりも劣っている。 、それはほとんど現れません。 【撮影者が表現のためにできる】写真のコントロールはわずかで、焦点【ピントのこと】を変えたり、露出を変えたり(ただし、これは暗闇の中で機能します)、現像によってある程度可能であるというのは、私は疑うんです(私はハーターとドリフィールドの意見に同意しますよ、3.5か月かけてこのテーマを注意深く研究した後ではね)、そして最後に【焼き付け】プリント方法を、特定の方法でえらぶことですね。

But the all-vital powers of selection and rejection are fatally limited, bound in by fixed and narrow barriers.
No differential analysis can be made, no subduing of parts, save by dodging—no emphasis—save by dodging, and that is not pure photography, impure photography is merely-a confession of limitations. A friend once said to me.しかし、【写真に写りこむものの】選択と【写真に邪魔なものを】拒否【して取り除く】といった、極めて重要な力は、【写真という手段では】致命的に制限されており、【写真での撮影者の表現の自由度は】固定された狭い障壁に縛られています。 差異の分析はできず、部分を抑制することもできず、避けて保存することはできず、強調することもできず、避けて保存することはできません【要するにモンタージュや合成写真を否定している】。【人為的に不要なものを消したり、付け足したりするような、工夫、もちろん合成技法で作られた写真は論外、】それは純粋な写真ではなく、不純な写真で、単なる【写真表現の】限界の告白にすぎません。 かつて友人が私にこう言いました。

I feel like taking nearly every photograph and analyzing it.” Compare a pen and ink drawing by Rico or Vierge, in Pennell’s book. I thought once (Hurter and Driffield have taught me differently) that true values
could be obtained and that values could be altered at will by development. They cannot; therefore, to talk of getting the values in any subject whatever as you wish and of getting them true to nature, is to talk nonsense.

It is impossible, in most subjects, to alter your values as you wish, and to talk of such things now is mere emptiness and puffed-up humbug.

Some amateurs following Colonel Noverre’s REVIVAL of rough printing-papers LasT yEAR (1889), have thought that salvation lay in rough surfaces. Colonel Noverre’s dustheap was ransacked, and we have heard of a “new departure ”—a newer “school,” and all the bleat of the overweeningly vain “amateur.”

If there can be no scientific basis for an art, as some have asserted, Meissonier can claim to be-as artistic as Monet, and Monet as Meissonier.

The sharp photographer can assert his artistic rights alongside of the veriest “‘blottist.” So all opinions and writings upon art are as the crackling of thorns beneath the pot. In short, I throw my lot in with those who say that photography is a very limited art. I regret deeply that I have to come to this conclusion. Photography is first of all the hand-maiden of art and science. It has and will register new facts of light, form and texture. Pure photography is a scientific method of drawing, and scientists should work on until a true and literal scientific transcript of nature can be made—this by ortho-chromatics, etc.鋭い写真家は、最も優れた「ブロッティスト[汚すとかシミを作るという単語からの派生だが、落書き屋のような意味か?]」と並んで、その芸術的権利を主張できます。 そう、芸術に関するすべての意見や文章は、鍋の下でパチパチと音を立てるいばらのようなものです【まあいろんな意見があるという意味】。 つまり、私は写真は非常に限定された芸術であると主張する人々にロットを投げ込みます【=賛成です】。 このような結論に至らざるを得なくなったことを、私は大変遺憾に思います。 写真はまず第一に、芸術と科学の侍女です。 それは光、形、質感の新しい事実を記録し、そして記録するのです。 純粋な写真は科学的な描画方法であり、科学者は自然の真の文字通りの科学的転写が作成できるようになるまで取り組む必要があります。これはオルソクロマティックなどによって行われます。

It will interest some to hear what I think of some points that have been vexed questions in a war I have, I regret to say, stirred up. Composition, as understood by Burnet and others, I hold to be futility itself, though I can appreciate the attempts to meet the difficulties in this matter. The eternal principles of art I have heard so much of are mere catchwords.

Sharpness v. Diffusion.— lf the work is for scientific ; purposes, work sharply ; if for amusement, please yourself; if for business, do what will pay.シャープネス vs. 拡散[ぼかし技法] – 撮影が科学的なものである場合。 目的に応じて、シャープになるよう作業します。 娯楽のためなら、どうぞご自由に。 ビジネスの場合は、お金に見合うことをしてください【頼んだ人が好いように仕上げる】。

I have, I regret it deeply, compared photographs to great works of art, and photographers to great artists.
It was rash and thoughtless, and my punishment is in having to acknowledge this now. – Think of the marvellous dexterity of the man who with pencil, pen and ink, or paint and brush, produces a masterpiece, the drawing equal to that of the lens, the tones in harmony, the colour delicate and marvellously beautiful. Read Rood’s Chromatics for a hint of the manifold difficulties surrounding this subject. Then think of the amateur photographer who, if clever, can in a few weeks turn out good technical work.とても後悔していますが、私は写真を偉大な芸術作品に、写真家を偉大な芸術家に例えてきました。 それは軽率で軽率な行為であり、今このことを認めなければならないことが私の罰です。 – 鉛筆、ペンとインク、あるいは絵の具と筆を使って、レンズと同等の描画、調和した色調、繊細で驚くほど美しい傑作を生み出す男の驚くべき器用さを考えてください。 この主題を取り巻くさまざまな困難については、ルードの『クロマティックス』を読んでください。 次に、賢ければ数週間で優れた技術的な作品を仕上げることができるアマチュア写真家のことを考えてみましょう。

It may be asked then what theories on art I have? I answer at present wove. What artists I admire? I answer, all good artists and all good art. To what school do I now belong? None. What do I thick of writings upon art and art criticisms? Mistakes.

A final word. Suggestions have been made that I get some of my ideas from a book, called “ Naturalistic Painting.” I have a letter in my possession from an artist, wherein is stated clearly and exactly that * Mr. Bate had read a paper of mine on Naturalistic Photography before his first article appeared in the “ Artist.” At the Society of Arts, the other day, a paper was read by Mr. Davison—an amateur without training, and with superficial knowledge—in which my o/d ideas were freely and impudently handed about and no credit given me.
It was whispered about by my enemies that this person had originated some of the ideas of Naturalistic Photography. To enlighten the public 1 append a quotation from his letter to me on this point. There are plenty more confessions of “his lack of knowledge ;” that his articles were “drivel,” it is his own word, and other confessions of incompetence and proofs of plagiarism, if necessary. He is now welcome to my cast-off clothes if he likes—he or anybody else. It is with deep regret. I do this thing, and it is only as a duty to myself. I justify myself by stating that I wrote privately to Mr. Davison, expostulating with him for freely appropriating my ideas and telling him that if he did not give me full credit at the Society of Arts I should publish a history of the matter.
He never replied. He can publish my letter in full if he likes. This was Mr. Davison’s reply to a letter I wrote to him and others asking them if they minded me thanking them in public for their support. His reply is dated from the Camera Club, 16th December, 1889, ONLY A YEAR AGO. It is, “I AM GLAD AND PROUD TO BE IDENTIFIED IN ANY WAY WITH NATURALISTIC PHOTOGRAPHY, BECAUSE I BELIEVE IN’ WHAT I UNDERSTAND IT MORE AND MORE CLEARLY TO BE, BUT I DOUBT VERY MUCH WHETHER ANYTHING I HAVE DONE DESERVES RECOGNITION.”

I sent a copy of Naturalistic Photography some time ago for review, to the Editor of the journal of the Society of Arts, and it got a bad notice. All the ideas offered the other night were thus offered to the Society previously.
Lastly, a special speech, read from a paper by a friend of mine, especially pointing out how I had originated these ideas, was not reported as it was read, the printed report giving altogether a different impression from what the speaker said. Those who heard the original can refer to the speech, as reported in the journal of the Society of Arts—not Artists, as Mr. J. Pennell has aptly described it. This sort of treatment, which is nothing new to me, may excuse some of my bitterly written invectives.

Finally. Some of my friends to whom I have recently privately communicated my renunciation, have wished to know how it came about. Misgivings seized me after conversations with a great artist, after the Paris Exhi- bition; these were strengthened by the appearance of certain recent researches in psychology, and Hurter and Driffield’s papers; and finally the exhibition of Hokusai’s work and a study of the National Gallery pictures after three-and-a-half months’ solitary study of Nature in my house-boat did for me. ; P.S.— Will every Secretary of every Photographic Society take four wafers and a sheet of black paper and hide for ever the words ‘To the Student” in Pictures of East Anghan Life.

Having taken some earnest photographers a little way into the Art-world, I feel it my duty to say that, when I have fully reconsidered the limited art possibilities of photography and the general philosophy of art, I will write another book; in the meantime, let students avoid all spurious imitations.何人かの熱心な写真家たちをアートの世界に少しだけ導いてきた私は、写真の限られた芸術の可能性と芸術の一般的な哲学を十分に再考した時に、別の本を書くつもりだと、いうのが、私の義務だと感じています。 それまでの間、生徒には偽りの模倣をすべて避けてもらいます。


*Veriest = Upmost

と、彼は、いろいろな撮影技術や現像プリントの技術をもってしても、写真に撮影者が自分の意図をつけ加える余地は、絵画などほかの制作方法に比べて非常に限られていて、その意味では創作芸術としての写真は、最下位に置くべきだと、

Blottistの正確な意味【特に19世紀の】はやや不明なので、断言はしませんが、写真は落書きクラスの芸術性を主張できるのは間違いないとまでこけ下す。写真は科学的な記録であり、製作者の意思を反映するのが目的の芸術の要素は非常に限られていると 

それまでの彼の自分で書いた、自然主義写真の撮り方という本で書いたことを否定してしまいます

彼が日本の葛飾北斎を見て、自然に忠実であることが芸術ではない見本であり、忠実が基本となる写真では、芸術性が発揮される余地が少ないので、写真の芸術性は低いと論じたわけ

『冨嶽三十六景 駿州江尻』葛飾北斎
Hokusai 葛飾北斎『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」

ただ、これ19世紀末期の、また写真の表現手法が非常に限られていた時代の話で、

さらに彼は、

Pure photography is a scientific method of drawing, and scientists should work on until a true and literal scientific transcript of nature can be made(純粋な写真は、科学的な【手法による】描画方法であり、科学者は、自然の、文字通りの科学的記録が作成されるまで取り組む必要があります)

と、写真は科学的手法で「記録」であるのが本来で、いくつもの写真を合成して、絵画のような写真を作ることを欺瞞であるとは、はっきりは書いていませんが、そういう手法が使えない前提で、写真の表現としての限界を告白するまがい物の写真と、ピクトリアリズム=絵画主義的な要素も一部入れながら、写真は忠実性=記録性が基本であり、合成は欺瞞であると、写真における合成は邪道として自ら道をふさいでしまいます

エマーソンは、下のような同時代の合成写真家(Composite Photographer)には否定的でした、

“Fading Away”, by Henry Peach Robinsonヘンリー・ピーチ・ロビンソン, 1858 著作権切れ
The Two Ways of Life 人生の二つの道 (1858) by Oscar Gustave Rejlander

まあ、エマーソン以前から、創作の手段しての合成写真を否定する、意味不明な流れは写真のプロの間では根強く(ほかのジャンルの美術家たちなどは支援したので、合成写真で19世紀著名に活動していた人は特に珍しくなかった)。1860年代には特に著名だった、旅行写真家Francis Frith(England 1820-1899)は、Francis Frith, “The Art of Photography”, The Art Journal 5 (1859)という記事で、

We now come to the disadvantages of this attribute: for it happens, by a singular fatality, that upon it hangs the chief reproach to photographic reproductions as works of Art. The fact is, that it is too truthful. It insists upon giving us ‘the truth, the whole truth, and nothing but the truth.” Now, we want, in Art, the first and last of these
conditions, but we can dispense very well with the middle term. Doubtless, it is truly he province of Art to improve upon nature, by control and arrangement, as it is to copy her closely in all that we do imitate; and, therefore, we say boldly, that by the non-possession of these privileges, photography pays a heavy compensation to Art, and must for ever remain under an immense disadvantage in this respect.

と書き、

写真は、余計なところまで細かく記録してしまい、さらに、絵画のように、要素を入れ替えたり配置を変えることは、写真では不可能としてしまうんですよね、と、1860年代当時の旅行写真の大御所w

エマーソンが1890年に書いたのと一緒でw 

記録の手段として写真を考えるなら、要素を切り抜いて配置するような、合成写真は確かにアウト

でも、写真を絵画などと同じように、表現の手段として考えるなら、その場合は別に合成もありなのですが、どういうわけだか、写真家みずから、創作手段の可能性に蓋をして、写真は作者の創造性が発揮しにくいジャンルで、芸術を追求するのに大きく困難が伴う 

とか書いちゃうのが、21世紀の今も謎

さて、

エマーソン自体、芸術性を高く評価される写真が撮れることは、もちろんあることは否定せず、ただ、ものすごく自由度が低いので、むつかしい、しないほうがいいという論調なわけです

この19世紀の技術的限界と、エマーソンが信じる写真の在り方の定義の話を、

21世紀の現在も額面通りに受け取る必要はないです 19世紀の写真技術では、写真家の意思や意図を反映しにくかったので、写真は19世紀末期では芸術手法としては最下位のものである

という考えに至った、というのであれば、あるいはそうだったとも言えますが


写真は記録手段に徹するべきであるという、流れと、創作の道具の一つであるという、

双方ともごく当たり前の立場からくる議論は、21世紀も、炎上商法として残っていますが

写真=記録派も、写真ちゅうのは記録に決まってるだろ

というある意味「非」科学的なことを一般基礎常識のような態度で、世間にデーンと構えているので

風景写真の過剰レタッチ議論なんかが起きたりするんです

風景写真コンテストの開催者が、

開催者としてはありのままの自然を記録するという側面を重視したいので、このコンテストでは過剰なレタッチや合成は排除する方針を取ります

とはっきり言えばいいのに、

ただ単に、過剰なレタッチについては認めない方針ですとか、理由を説明しない主催者が多いし

レタッチを生かしたい表現者も、新しく「創作写真」とか言って、自然を題材に、レタッチなど制限なく新しい表現をする写真ジャンルですとかはっきり言って、合成やレタッチ写真を評価する場を設ければいいのですよ

まあ、これは俺のほうが正しい自然風景写真やってるんだとかいういがみ合いから、譲らずに延々と議論だけが金儲けのために行われてますがw


合成モンタージュ写真と写真のピクトリアリズム絵画主義

風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】

日本語のBokeh(ボケ)が、写真のピントの合っていない領域の描写を示す言葉となった経緯【ボケはあいまいさを尊ぶ日本の文化が写真に反映されたというバカ学者・ライターたちを検証】フランス語のFlouと日本語起源のBokeh

ウィリアム・クラインWilliam Klein、1950年代、写真は絵画ではできない表現手法ができるのが面白かったと、19世紀末期の写真は芸術たりえないとしたエマーソンとは逆の見解を示した

ボケの歴史:写真と絵画の相互影響、印象派の作品と初期写真レンズの渦巻きボケ表現

1830年代に、カメラの映像を長期間保存するダケレオタイプ式の発明と、その後の湿板の発明で、

絵画制作に写真を用いる画家が多くなりました(それ以前から、カメラの画像を紙に投影して、なぞって下絵にすることは普及していた)

写真家は写真は記録というのが絶対主義で隅々までシャープで、絞りを絞ってピントを深くするのが正当だというのが圧倒的多数でしたが、

写真も表現手段であり、絵画的な表現を写真で追及する写真家たちも、プロ写真家たちの激しい糾弾にあいながら、ほかの美術家たちの支援を受けて、著名だった人は19世紀中ごろには一定数少数派ながらいました。

当時は、ボケやブレ、ピンボケ、などなどの写真において技術的欠陥とされるものはFlou(英語ではBlur)と呼ばれ、現在のように、ボケ、ブレなどとはっきり区分されることはなかった。

まあ19世紀のほとんどは、写真レンズは、一群二枚、あるいはダブレットと呼ばれる二群4枚のレンズ構成がほとんど(一枚レンズや、レンズのないピンホールでの撮影もソフトフォーカス写真で多用された)で、

これらのレンズのボケは、開放絞りでは周辺が渦を巻いたようなぐるぐるボケを生じるなど、ボケ描写も似通ったものでした、20世紀におけるようないろいろなレンズ構成ができたことで、レンズ設計によるボケ描写の個性が評論の対象になるような時代ではなく、19世紀にはボケ描写の個性は取り立てて注目されなかったのはむしろ当然だったからなのです。また大判や中判カメラが主力の時代は、ピントを稼ぐ=被写界深度(DOF)を取るため、絞りをかなり絞るのも普通で、どっちかというと、カメラの蛇腹あおりティルトでぼかす手法のほうが実用的だった。レンズ特有のボケの違いに注目が向くのは、1930年あたりからの絞りを開き気味に撮影しても被写界深度が稼ぎやすいライカ判などの小型カメラができて、普及しだしてからとも言えます。

画家の中には写真の表現を絵に取り入れた節が、自分の絵画制作の資料に写真を熱心にとっていたドガなどにはあります

19世紀中ごろ以降から、画家のほうも写真から、表現を学び取っていたのは、当人たちの生活記録などからは、ドガなど一部を除いてはっきりした証拠も残っておらず、そうだと断言できないことが多いですが、たぶんそうだったろうとも言えます

19世紀中ごろ以降から印象派と呼ばれる画家たちが多く作品を出すようになりますが、

印象派は、写真でいう、ピントを合わせない部分=ボケの分を大きくとって遠近感を表現するような表現手法は、積極的には用いず、それゆえ遠近感を欠いた平面的な絵画が特徴ですが、このことから写真のブレのほうに関心が向いていたとも言えますが、レンズのボケ描写にも注目していた可能性はあります

カナダの印象派の画家Helen Galloway McNicoll RBA (December 14, 1879 – June 27, 1915)のSunny September《よく晴れた9月》1913

Helen Galloway McNicoll RBA (December 14, 1879 – June 27, 1915)のSunny September《よく晴れた9月》1913

印象派は、背景をできるだけぼかさない作風が多いですが、それまでのロマン主義や、写実派などと異なり、背景を荒く流したり、渦を巻くような描写が珍しくないのも特徴です

こういうのは、周辺が荒く流れがちな初期の写真機のレンズで撮影された写真の影響が、あるいはあるのかもしれないです。そうだとしたら、印象派の画家は、初期写真レンズ特有の荒れたボケに、表現美を見出していたのかもw

例えば、異端視されながらボケとブレを生かした写真を1848年ごろ前後から多数撮影していたフランスの写真家Charles Nègre(1820 – 1880)の作品 ボケとブレを効果的に使って印象的な写真表現を試みていました

by Charles Nègre(1820 – 1880)ボケのみならず、ブレもあります。著作権切れ 当関連ブログからの埋め込みリンク表示

こういうのが印象派の絵画の特に背景描写に、あるいは影響を与えていたのかもしれないとは、思わせますねw


写真表現の歴史

日本と欧米の写真写真のボケ文化:欧米は、初期から絵画風の写真を撮る手段の一つとして「ボケ」があり、日本はレンズを売るための手段としてのボケ描写のこだわりを広めた【写真にまつわる怖いカルト神話とボケ】

画家・エドガー・ドガEdgar Degas(1834年7月19日 – 1917年9月27日)と写真活動【印象派の画家と写真におけるボケ、ブレ、アレの歴史】

1890年ごろから、1930年ごろまで顕著だった、ソフトフォーカス的な手法が目立ったピクトリアリズム(絵画主義)の時代

日本と欧米の写真写真のボケ文化:欧米は、初期から絵画風の写真を撮る手段の一つとして「ボケ」があり、日本はレンズを売るための手段としてのボケ描写のこだわりを広めた【写真にまつわる怖いカルト神話とボケ】

最近日本では写真のボケ文化が~とか、あいまいさを尊ぶ文化が暈けという言葉を、レンズのボケに結びつけただの、オカルトみたいなのが、クリエーターに寄生しているサナダムシの大学とか言うお遊戯教室の三文学者たちが、飯の種で騒いでいるようです。

が、日本でも、レンズの個性的なボケ描写なんて、細かく注目されたのは、20世紀もかなり後半になってからで、ボケを取り上げるようになったのは、メーカー主導の他社レンズとの差別化のための、性能項目比較に使うという、商売上の理由のほうが多かった。そう21世紀になってからフォーカスブリージングで大騒ぎする、動画なんて実際は撮らない人たちがいますよね。

*1893年になって、ようやく原始的な三群三枚のレンズトリプレットが完成し、そこから派生した1900年、3群5枚のヘリアー、1902年テッサーが実用化されますが、

それ以前は、一群二枚(リンク)とか、単玉の写真レンズしかなく、

1840年になると主にポートレート用に2群2枚のダブレット光学系のレンズが商品化

Petzval(Joseph Petzval (6 January 1807 – 17 September 1891))が1841年にデザインしたポートレート用レンズ portrait lens – crown glass pink, flint glass blue *著作権切れhttps://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Petzval

レンズ設計の個性によるボケ味とかに関心が行くのは、いろんなレンズ光学タイプの設計のレンズが出始めた、さらに大判カメラや中判カメラとは違い、被写界深度が深く、レンズを開放絞り付近で使うことが多くなった、ライカ判カメラが普及しだす、20世紀も後のほうにならないといけなかった


写真として記録する技術が確立する以前から、カメラは発明されていて、見たものを壁など平らなものに投影することはできたので、それの輪郭をなぞって下絵を描くのは、17~18世紀ごろには行われていて、写真ができる前から、カメラは美術画家たちの下絵作成によく使われていました。

ダゲレオ式daguerréotype=銀板の発明と普及で、カメラが映し出す像の記録ができるようになると、

西洋において、ボケは早期から意識されていましたが、レンズのボケではなく、絵画表現で使われているボケを、写真に持ってこれないかということで、「ボケ」も使われたというだけで、実際は合成や、ブレ、ソフトフォーカス、ピント外し(ボケの一種ですが)、などほかの手段も、絵画に似た写真を製作するのに使われました。

要は、海外では、絵画の世界も写真で再現する要素の一つとして「ボケ」があったのであり、レンズのボケ具合の個性を細かく見て、レンズ性能がいいとうっとりするレンズフェチ文化の日本とは、根本的な違いがあったということです

当ブログや関連ブログでしつこいほど、書いているように、西洋では写真の発達とともに、絵画のような、ボケやブレ荒れなどを生かした写真を撮りたいという流れがあり、

逆に

写真は隅々までピントの合った、シャープな描写が本来で、ボケさせたりピント外したりなどはFlouで、そうした技術的欠陥を、表現に使うのは異端

という写真主流派とのせめぎあいがありましたことは紹介

パンフォーカス・シャープカルトは、21世紀のいまでも、風景写真の一部にその残骸を残していますが、風景写真でも水などのブレを表現するのはタブーではなくなっています。


この西洋においては、

いわゆる写真でいうボケと通じる要素を多数持ったのが、

ロマン主義派の画家たち ロマン派の画家たちの作品のボケは端正にぼけるので、写真用レンズではなだらかなボケのレンズのほうがあるいは好ましい場合もあります

ロマン派の後に出た、印象派の画家たちは、遠近感を出す作品が少なめで、どちらかというと、写真のほうのブレの表現を見てそれに逆に影響されたという人も多いです ドガなどは、自分でも写真をやっていて、踊り子が少し動いてぶれる写真を、絵画の描写に生かすことを思いついた可能性もあります

印象派の画家は、ただ見せられただけだと、ナンスか?荒い絵ですね。とよくわかんなくなることが多く、日本の教育現場でも、とにかく名作じゃおがめと、教えているのが多すぎですが、

人間の夢とか、記憶の中の思い出の人々とかを絵画で表現したのが印象派だと、最初に見る人に説明すると、その人にも、印象派の絵というのは、がぜんわかりやすくなります。

例えば、モネですが、アニメなどの回想シーンでも似たような描写がよく出てきますね。追憶の中の人、というのは脳でもこんな感じで再現されます

La Promenade, la femme à l’ombrelle散歩、日傘をさす女性 1875 by クロード・モネClaude Monet

とみてればわかるように、こうした世界を、写真に持ち込む場合、荒くボケるレンズのほうがかえって好都合だと、考え付くわけです。いわゆるクリーミーなボケのレンズでは、こうした印象派の絵の世界に近づくことができない

まあ、ボケを表現に取り入れる動機が、西洋と日本では若干異なる事情がある


画家・エドガー・ドガEdgar Degas(1834年7月19日 – 1917年9月27日)と写真活動【印象派の画家と写真におけるボケ、ブレ、アレの歴史】

実際は写真の普及時から今も続く、写真とピクトリアリズム(絵画主義)pictorialism, pictorialisme: 誤解がはびこる絵画主義 ピクトリアリズム自体が長い流れの通過点であることを誤解・忘れさせるような記述が特に日本で多すぎ:写真と絵画の相互影響

写真におけるボケ、ブレ、アレなど、不完全性を表現に取り入れる作風の歴史

写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち 

日本では、芸術としての写真を追求する人は、プロではなく、アマチュア写真家だとする風潮が1980年代ごろまであった:日本のブレ、アレ、ボケ表現の初期

フォーカスブリージングが少ないレンズって、動画で本当に必要なの?【機材の性能項目】

フォーカスブリージングの少ないレンズが、ビデオや動画撮影で必要になる場合【フォーカスブリージング神話】アナモフィックレンズ(anamorphic lens)はフォーカスブリージングが可能な限り少ない方がいい

ボケの歴史:写真と絵画の相互影響、印象派の作品と初期写真レンズの渦巻きボケ表現

ボケ(Bokeh)の用語起源【写真撮影】The Origin of Bokeh in Photography; Flou (French) vs Bokeh(Japanese)

画家・エドガー・ドガEdgar Degas(1834年7月19日 – 1917年9月27日)と写真活動【印象派の画家と写真におけるボケ、ブレ、アレの歴史】

1830年代からの実用的な写真技術の発明と普及が始まると、

写真は絵画と異なり、ボケ、ブレ、アレなどは、不完全な間違い=Flou(フランス語)として扱うべきであるという、不思議な文化が生まれました。

20世紀前半ごろまで、特に19世紀は、画家が写真家を兼任したり、画家の勉強をしたものが写真家をやる場合も多かったので、

そうした人たちは、写真も表現の手段であり、絵画のような表現を追求しないのはおかしいと、ブレや、ピントをわざと外すソフトフォーカスなどを表現として用いて、活動し、プロの写真家協会から無視されても、美術館やほかのジャンルの芸術家たちの支援で、実際には有名だった人は19世紀にも珍しくなかった。*英国のほうが、不鮮明な画像しか得られない、写真技術タルボタイプ(カロタイプ)の発明が自国産ということもあり、フランスよりは、ボケ、ソフトフォーカスに寛容だった。ただ、英国のプロ写真家協会も、Julia Margaret Cameronなどのボケブレを敵視して批判を加える状態で、反対にフランスでも、ボケを前面に出して営業していた写真家は、実際にはCharles Nègre(1820 – 1880)など19世紀半ばにもいて活動していた。ただし職業写真家協会からは許さざる行為と無視された

Modèle assis ca.1849 by Charles Nègre

Nu féminin assis sur un lit, de dos by Charles Nègre (1820–1880) 彼は1861年に引退して南フランスに移ったともいわれるので、その前の時期の撮影か?1848年には似たような写真が多い

写真にも絵画的な表現があってしかるべきという、ピクトリアリズム(絵画主義)やSurrialismの動きが1890年ごろから徐々に拡大し、とうとう、ボケやブレ、ソフトフォーカスなど、写真の不完全性とみなされる要素を表現の手段として用いることを堂々掲げるようになった写真館が、一番そうした流れに抵抗してきたフランスでも、1920年代以降は盛んになっていきます。


*狭い意味での、裕福な層が中心の写真ピクトリアリズムは、1920年ごろには衰退するとされますが、ボケやブレなどを使った表現の可能性を追求する流れからすれば、ピクトリアリズムも、1840年代からの流れの、一通過点でしかないし、その後も継続することになる。写真もこのころから小型カメラの普及が始まり、アマチュアが大量に入り込み、以前のような特定の富裕サークルが写真を指導する時代は終わり、何々主義と簡単に分類できるような状態ではなくなる。西洋絵画でも、特にフランスでは国営サロンの審査合格がないと、一人前の画家になりにくかったのが、民営化でサロンの権威が失墜、同時にいろんな作風が一気に出始め、何々派の絵画という区分は言いにくい時代となった


ボケやブレなどの写真での認知は、絵画の文化と密接にかかわってきたため(20世紀中ごろくらいまで、画家として相当な技能を持った、あるいは画家たちよりかなり交流のある人たちが写真に入るのが、それ以降の時期より多かったこともある)、特に欧州では、絵画のほうの流れも少し頭に入れておかないと、欧州写真のボケ、ブレ、アレなどの需要の歴史が理解できないともいえ、

19世紀や20世紀、初頭の絵画の世界はどうであったか、今回は1860年ごろから始まった印象派の画家の話をしましょう。


まあ、こう書くのも一応日本の三文学者をちろっと見たとき気が付いたのは、海外での流れ=絵画のような表現を写真でも正当な手法として、ボケ、ブレ、アレなどを用いる運動(それ以外の技術的要因とかもありますが)が、ほとんど本質的なものが理解されないまま、言葉遊びで適当にごまかされているのが大部分だったからです。クリエーターに寄生して、評論家ごっこで、漁夫の利を占めたがる、大学などの無駄飯食い三文学者とかの駄文を有料で買わされるのは気の毒なのでw(大学の教員とか、精神が5ちゃんクラスの人は、減ったけどまだ珍しくなく、平気で海外の話を捻じ曲げたり、情報改ざんする人も無数 悪質マスコミと大差のない人も多数います まあ自分がバカだとわからないよう、とぼけたり、バカがばれないように沈黙するのも特徴的。一番不可解なのは、こうしたビジュアル作家は、作品から意図を読み取るのが本来なのに、文字資料から創作背景を探ろうという、読書感想文の変なアプローチをする学者ごっこ先生が多すぎ)

まあ、こういう人たちは、写真、ストリートフォトでも、ボケ、ブレ、アレ、とかあるいはコンプラ写真とか、作風分類ごっこをして、評論ご飯の種にしようという人が現在も見受けられますが、日本の、コンプラ写真(ボケ、ブレ、アレ批判が多かったので方針を180度転換したという邪推もある)とか、ボケ、ブレ、アレ写真も当時のカメラ毎日の、編集者山岸章二の仕掛けた、まだ当時は比較的影響力があったカメラ雑誌による、上からの押し付け流行な部分があるので(もっともらしいレッテルを張って、売り出させる)、それを文化の流れとか誇大に評価したり、あまり写真家たちを、分類ごっこの材料にするのはどうかね?

カメラ雑誌は文字紙触媒が席巻していた1960年代には、支配的なメディアで、特に写真雑誌の側面が強かったカメラ毎日に取り上げられることで、写真家デビューあるいはもうプロで活躍している人の売名に役立った。森山大道も、カメラ毎日に写真を持ち込んで採用されたことで、特集が組まれ、ようやく名実ともにプロ写真家として認知された 販売部数の多いこの時代は、カメラ雑誌が、はやりの写真スタイルを仕掛けることが可能だった


写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち


まあ、19世紀の写真家の中では、画家などの表現手法を学んだ人ほど、ボケ、ブレ、アレに肯定的に取り組んだので、

写真はパンフォーカス、シャープであるのが正当で、ボケ、ブレに魅力を感じるのはアマチュアである。写真においては、絵画のようなブレ、ボケは許されないという風潮が最も強かった、フランスでの、画家の流れを見ましょう。

フランスでも、アカデミー絵画は保守的なままでしたが、ロマン主義など新しく生まれた画風では、ボケやブレ、アレなどの手法を使い、人間の感情、記憶や、その場の雰囲気など、内面を絵画で表現しようという流れも出てきます。そのすべてがボケ手法を大胆に取り入れるというわけではなかったですが、ボケに関して、最も積極的だったのはロマン主義者の画家たち 彼らは主題以外をぼかすことで絵の中の距離感を表現、ブレ、アレに関しても、ロマン主義画家には写真と通じるものがある

ただ、ボケに関していうと、

ほかにも19世紀にフランスでは,

新古典主義

写実主義

1860年代から出た印象主義派

がありましたが、これらの画家たちは、ロマン主義派のような、写真でいうようなボケの表現には、消極的なことが多かった(ボケの表現に知識がないとは言えないのは、いくつかの作品に出ているが、できるだけボケを目立たせない方向で絵画を描くことも多く、写真でいうパンフォーカス的な作品が多かった)

印象派の開祖ともいわれるエドゥアール・マネ Édouard Manet(1832年1月23日 – 1883年4月30日))が、1863年ごろに書き上げたとされる初期に属する絵

Édouard Manet – Le Déjeuner sur l’herbe  『草上の昼食』エドゥアール・マネ 1862-1863ごろ製作 日本では著作権消滅

まあ、この絵は、当時はヌード絵画などは、神話の神や神の使徒を描くべきで、実物の人間をテーマにしたヌード絵画はモラルに反するとされていたので、批判を浴びた作品ですがw(そう、西洋で、古代からヌード彫刻や絵画が宗教画でも容認されていたのは、人間ではなく、神々や妖精の裸で、わいせつではないという話だったんだねwこの当時は、国営のサロンという絵画評議会がフランスにあって、そこで気にいられないと画家デビューがフランスでじゃむつかしかった サロンは民営化の1881年までに力を失い、画家として売り出すのにサロンに気に入られるという足かせはなくなって、多数の表現が生まれる)

1:かすかなボケ表現が背景にあるが、基本的にはパンフォーカスで、遠近部分がボケないことで画像が平面的に見える。これは新印象派や後期印象派になっても、遠近感を意識させない平べったさが表現の特徴なので、ボケは印象派の関心ではなかった

2:印象派の表現は、写真のブレやあれに通じる表現があるものがあるが、上のように控えめな場合も少なくない

同じ作者の、下の作品でも、ボケ表現は最小限に使われ、写真でいうパンフォーカス的な絵画ですね。ボケを否定することで遠近感がなくなり、立体感にかけた、平べったい描写が印象派絵画

エドゥアール・マネ Édouard Mane『テュイルリー公園の音楽会』Música en las Tullerías 1862年。日本著作権消滅

と、印象派の表現は、ボケは最小限にしか使わないので、この作風を見て写真に入った人は、同じように、ボケ否定で写真もパンフォーカスとやっていただろうね

と思わせるわけです

さて、マネが作品を出し始めた1860年ごろを起源にするといわれる印象派の画家たちの中で、

エドガー・ドガ(Edgar Degas、1834年7月19日 – 1917年9月27日)は、写真もいじっていたことで有名です

ドガの代表作は、

“Ballet – L’étoile”『踊りの花形』または『舞台の踊り子』1878年

写真の「荒れ」「ブレ」に通じる要素はあっても、ボケについては積極的というか消極的な利用ともいえるかも?

ドガのもう一つの作品

“Classe de danse” バレエのレッスン 1874年 日本では著作権消滅

ボケの表現を無視しているわけではないですが、極力ボケを抑えるパンフォーカス的な絵画 まあ、写実的に描かなかったという点で、写真でいうと、ピントずらしソフトフォーカス的な小さなボケとみることもできますが

さて、ドガは、写真に興味がありましたが、実際に自分で写真を撮影しだすのは、1895年になってからといわれます。乾板の登場で、ようやく写真が、アマチュアにも扱いやすくなってだいぶしてからの時期ですね。

ドガは、写真機を自分と友人や家族の記念撮影に使ったので、大部分は以下のようにぼかさないパンフォーカス写真なんですが

[Self-Portrait with Christine and Yvonne Lerolle] Edgar Degas ca. 1895–96

上の二名の女性は

ドガの友人のフランス画家、Henry Lerolle (3 October 1848 – 22 April 1929)の娘たち

さて、ドガは、絵の資料としても写真を撮影をしていました。ドガは、モデルに面倒なポーズをさせたがったのですが、長時間そんな格好をさせるのはかなりモデルたちから不評であり、それなら写真に撮っておいて、それを参考に絵を描くのが現実的と思ったからでしょう

Edgar Degas, After the Bath, Woman Drying her Back, 1896 ドガが絵画の資料として撮影したヌード写真

下がドガが上の写真見ながら作った絵

After the Bath, c.1896 Hilaire Germain Edgar Degas (1834-1917)

ただ、ドガは写真技術を喜んでたといわれ、1895年にJulie Manetという人は、

ドガさんは写真に夢中で、私たちを写真撮影のモデルにって、来週の夕食に招待したんです、「三分」ポーズするだけでいいのです。“M. Degas ne pense plus qu’à la photographie, il nous invite tous à aller dîner chez lui la semaine prochaine, il fera notre photographie à la lumière ; seulement il faut poser 3 minutes ; il a voulu voir si nous étions de bons modèles et a fait poser M. Renoir qui s’est mis à rire.(Julie Manet, 16 ans, 29 octobre 1895)

写真そのものを表現として利用したいと思っていたかは不明。あくまでも絵画を描く資料作成に便利な道具と思っていただけかも?

家族や友人たちの写真は、画家らしくポーズや衣装と明暗差にこだわりつつも、記念撮影として前から奥まできちんとピントを合わせたパンフォーカス写真ですが、

Edgar Degas, Two Dancers Adjusting their Shoulder Straps, ca. 1897. Public Domain 著作権切れ

下の写真は1895年ごろ、ドガが踊り子の写真を上の絵画作成用に撮影したものの一部

ドガの絵画作成用資料写真 著作権切れ

この写真は、ドガが絵の資料として撮影した踊り子の一枚ですが、ブレが見られますよね。

ただ、これを意識してドガが写真の表現として使っていたかは不明なわけです 当時の写真機の性能、たとえば、狭い部屋でピントが合わせきれなかったとか、

taken by Edgar Degas Public Domain

暗い部屋で露光時間が大幅に伸びたので、モデルが耐えられなくなって動いただけ

ともいえるからです。というわけで、ドガは、写真ではボケブレアレを積極的に取り入れたとは言えないでしょう。

ドガなどの印象派の画家たちは、ボケはあまり重視はしていませんでしたが、そうした作風を写真に取り入れたいと考えていた、特に1890ごろから盛んになり始めるピクトリアリズム(絵画主義)の人たちが、

どうやって写真でドガなど印象派の作風をまねるかといえば、印象派はロマン主義派の絵画と同じ荒い筆遣いが特徴なので、

撮影時の

ブレ

現像時の

アレ

プリント時の

ピグメント印画法

などが思いつきますね

さて、もう一回ドガの絵画、以下のようにボケ表現を知らなかったわけでないですが、ドガは積極的に大ボケを利用しなかったのも確か

Degas Edgar – Musicians in the Orchestra 1872 著作権切れ

写真家たちは、ピントくっきり隅々までシャープな記録手段としてではなく、表現手段としての写真を目指すものが初期からいて、特に19世紀はボケ、ブレ、を使って写真を絵画にちかづけようと熱心に西洋絵画から学びました。

印象派の画家も、当時の写真機はシャッター速度が遅いため、動く人たちなどが「ぶれ」るのを見て、それを作品に取り入れた。と、19世紀の画家と写真家は相互に学びあう関係が、特に欧州にはあったわけです


さて、ドガの友人であり、彼の絵を買い取るパトロンでもあり、自身でも絵をかいていたHenry Lerolle(3 October 1848 – 22 April 1929)の作品も見てみましょう 

彼自体は印象派、新古典主義者だか、写実派だか、どこのグループの作風を志向していたかは不明です

まあ援助していた画家たちの作風を、気分や要望に応じて変えたのでしょうが(この人はゴーギャンとかも付き合いがあった)

The Organ Rehearsal (1887) by Henry Lerolle

上の彼の代表作的なものは写実派志向ともいえますが、

Madeleine Lerolle and daughter Christine. Circa 1890 by Henri Lerolle

この作品では左側の娘の顔を意図的に不鮮明にする、印象主義風ですが、ロマン主義の描写をまねしたと思われる表現となっています。写真だとソフトフォーカスかな?

同時期のフランスの印象派画家、クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 – 1926年12月5日)の作風とにてますね 顔のディテールもできるだけあいまいにする描き方

La Promenade, la femme à l’ombrelle散歩、日傘をさす女性 1875 by クロード・モネClaude Monet
『戸外の人物習作(右向き)』Monet, Woman with a Parasol, facing right, 1886年

写真でこの作風を表現するには、

粒子の荒れや、わざとピントを外すソフトフォーカスが考えられます

隅々までピントが合ってシャープな写真以外は、邪道とされてきた19世紀の写真で、写真で絵画風の表現ができないかというピクトリアリズムの延長から始まって、写真のボケ、ブレ、アレを表現として認めさせる流れが出来上がったのですから、

同時期の画家たちの作品を見てみるのも、特に画家と写真家の間が近いことが多かったフランスなど欧州の写真の流れでは、理解に役立つこともあるでしょう*もちろん、画家の画風以外にも、ボケ・ブレ容認の流れには、技術的、社会的な要因があるのですが、それは別記事で

ちなみに日本は明治時代、鉄道に食堂車が設置されたころのイラストですが、

成田鉄道の喫茶室 イラスト1903年 著作権切れ

ボケなんかはほぼ意識されていない作風 絵画のほうの動向も写真家に影響を与えたのは日本でも間違いないので、日本でもボケなどを生かす作風は明治には異端視されたのが現実でしょう。

横山大観(1868‐1958)は、ボケとブレにつながる横山大観「樹間の月」を1903-1904年に描いたとされますが

https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=MFA27806

(横山大観の著作権は2009年に著作権切れ 2018年の70年延長の対象ではない)

当時は激しい批判を受けて受け入れられなかった

*日本では、写真を芸術の手段として用いるのはアマチュアとされ、写真家のプロ=商業撮影であるという文化があった。プロの写真芸術家の作品は売買するような価値のあるものとして広く扱うのは、1980年ごろ以降で、歴史の違いがある。

日本では1967年あたりから、森山大道、中平卓馬らが、ボケブレ荒れを前面にだした写真を展開しますが、欧州の流れとは異なり、反権力の表現手法としてボケブレ荒れによる写真表現を見ていたような感じが、特に中平卓馬には見られ、ブレボケが大手商業、特に国鉄の宣伝に盛んに使われるようになったのを見て、中平はボケブレ荒れ批判と否定に、走るようになります。


日本では、芸術としての写真を追求する人は、プロではなく、アマチュア写真家だとする風潮が1980年代ごろまであった:日本のブレ、アレ、ボケ表現の初期


See Rare Photographs Taken by Edgar Degas

Zuzanna Stańska 19 August 2021

DailyArtMagazine

https://www.dailyartmagazine.com/this-photographs-taken-by-edgar-degas-will-sweep-you-off-your-feet/

Daniel, Malcolm, with essays by Eugenia Parry and Theodore Reff,

Edgar Degas: Photographer

The Metropolitan Museum of Art. New York (1998)

https://www.metmuseum.org/art/metpublications/edgar_degas_photographer


日本では、芸術としての写真を追求する人は、プロではなく、アマチュア写真家だとする風潮が1980年代ごろまであった:日本のブレ、アレ、ボケ表現の初期

写真におけるボケ、ブレ、アレなど、不完全性を表現に取り入れる作風の歴史

日本と欧米の写真写真のボケ文化:欧米は、初期から絵画風の写真を撮る手段の一つとして「ボケ」があり、日本はレンズを売るための手段としてのボケ描写のこだわりを広めた【写真にまつわる怖いカルト神話とボケ】

感性の赴くままに写真を撮影することも、あるいは正解の場合もある:ウィリアム・クラインWilliam Klein ブレ・ボケ・アレを写真表現として確立したアメリカの写真家

実際は写真の普及時から今も続く、写真とピクトリアリズム(絵画主義)pictorialism, pictorialisme: 誤解がはびこる絵画主義 ピクトリアリズム自体が長い流れの通過点であることを誤解・忘れさせるような記述が特に日本で多すぎ

使い捨てフィルムカメラ写ルンですの類の先祖 1889年にはコダックが現像サービス付きの、フィルムカメラを売っていた

写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち

現在も単なるピンボケ、ブレは、悪とされますが

1955年以降、ブレ、アレ、ボケを、失敗ではなく、作画意図として取り入れ、写真の表現として用いるのを、写真のプロの間で認知させたのは、アメリカのウィリアム・クラインWilliam Klein

感性の赴くままに写真を撮影することも、あるいは正解の場合もある:ウィリアム・クラインWilliam Klein ブレ・ボケ・アレを写真表現として確立したアメリカの写真家

ですが、それ以前からボケやブレを表現に入れて活動していた、プロ写真家たちは19世紀から存在し、写真家として当時有名だったりしたこともめずらしくない。ただ、その時代、そういう表現には、反対や批判派の声はものすごくあった ボケは最小限に、ブレはあってはならない とかね

というわけで、20世紀のクラインの功績は、保守派の写真家たちを黙らせ、ボケ、ブレを邪道の表現手法という批判カルトを、ストリートやポートレートの写真界から撲滅したことですけど(それ以前は絵画兼業の写真家たち以外の、写真専業プロたち(とはいっても絵画の教育も受けたことのある人たちは、初期の写真家には多かった)には、ボケ、ブレを写真の表現として認めない風潮が強かった) 風景写真では根強く、隅々までシャープカルトが支配的な論調が残ります


写真のボケ表現は、日本写真文化の専売特許ではなかった:日本独自なのは、各レンズのボケ描写の違いを事細かく評論する文化

写真が実用化されたのは、1830年代になってからですが、

そのころ絵画の世界では、ブレとボケを生かした表現は、手法として確立していました、

まあ、写真はフランスで発明されたので、ボケやブレは、フランス語では、Flouとして、明確に描写されない部分を指す言葉として、現在のようにはっきり、ブレ、ボケと区別する用語は用いされていませんでした。英語のBlurも、19世紀の昔は、ブレとボケの、双方を意味していた。

にもかかわらず、初期の写真家は、多くは絵画を習っていることが多かったのに、ボケやブレは、絵画においては正しくとも、写真においては認められない(フランスの写真家 オーギュスト・ベロックAuguste Belloc、1862年に出版した本での発言)

とかいう奇妙な理屈をかざす人が多く(まあ絵画も、西洋ではルネサンス以降、写実主義が本道とされた時代が長かったので、絵画でも、ボケ手法を使いすぎとかいう批判が行われることがまだあった時代ですが)、できるだけぼかさない、ブレもよくない、それが写真表現だというのが、主流派として長く幅を利かせていました。

初期のダゲレオタイプのカメラ(ジルー・ダゲレオタイプ)は、八つ切りサイズ 167×216mm判であり、付属レンズはF17ではありましたが、ボケやすいカメラではありました

一方、英国で1841年に誕生した、ウイリアム・ヘンリー・タルボットによって作られた「カロタイプ」(タルボタイプ)は、銀メッキした銅板を使うダゲレオタイプとは異なり、塩水に浸した紙に硝酸銀溶液を浸したものを使う方法が登場、しかしタゲレオタイプのほうが、はるかにシャープな画像が得られるため、タゲレオタイプが普及した

さらにガラスを使う湿板(しつばん)が1851年にイギリスで誕生 この時、タゲレオタイプの写真は衰退し始めるものの、アメリカ大陸ではタゲレオタイプの撮影が好まれしばらく残ることとなります。湿板(しつばん)は、自作しないといけない+出来上がったら、乾かない5分くらいで使わないといけないという、とんでもなく面倒(特にロケとかね)なものだったので、アマチュア写真家がたとえ裕福でも気軽には手を出せなかった。1860年代に活躍した英国のJulia Margaret Cameronは、自宅の外で撮影するなどの時には、湿板(しつばん)の準備機材を馬車一台に乗せて運んだといわれます。

1871年にはガラス乾板(かんばん)がイギリスで誕生 臭化銀ゼラチン乾板とも呼ばれるこの手法は、既製品として店で売ることが可能となり、湿板(しつばん)のように自分で感光材(まあフィルムや画像センサーを自作と考えれば)を作らなければならないことがなくなり、アマチュア写真家たちも手軽(とはいっても高価だが)に写真に手を出しやすくなった

 そして1889年にはセルロイドを使う、今も残る銀塩フィルムがアメリカで誕生

とはいっても、早くも1840年代には、隅々きっちりピントを合わせて細部を表現する写真家たちの活動に疑問を呈する議論が、画家のEugène Delacroix(ウジェーヌ・ドラクロワ 1798-1863 ロマン主義絵画で有名)などらにより開始されており、

Eugène Delacroix – La liberté guidant le peuple.(1830)『民衆を導く自由の女神』彼ウジェーヌ・ドラクロワの代表作で有名ですが、ボケを生かした遠近感を生み出す手法が用いられています
Delacroix Louis dOrleans devoilant une maitresse (ca.1825) Eugène Delacroixウジェーヌ・ドラクロワ

19世紀の絵画では、遠近感を出したり、主役を強調するため、ボケやあれが普通に使われるようになっていたのがわかります。

写真が発明普及した時期には、こうした絵画の表現学の手法を知っている人は、当然多数いたわけで、

ブレやボケを表現として作品にしたりする人は、写真機が普及しだすと増えていきますが、写真のプロのサークルでは、

ボケ(ボケという単語は当時は使われずBlur、Flou)は、アマチュアの好む表現だ。とし、風景や景観撮影以外でも、

ポートレートでも、アマチュアは絞りを絞らず、全身にピントを回さず、顔だけピントが合ってればいいと勘違いしている(フランスの写真家 オーギュスト・ベロックAuguste Belloc、1862年に出版した本での発言)

と、可能な限り絞り、深くピントを稼ぐ=被写界深度を大きくする

のが、プロのカメラマンの仕事であるとされていたわけです。特にこの傾向はフランスなど欧州大陸で強く、英国などではソフトフォーカス、ボケを表現に取り入れることにより寛容でしたけどね 英国で発明された「カロタイプ」(タルボタイプ)の写真は、ダゲレオタイプよりソフトになるのが特徴で、英国で発明されたソフトな写真の技術なので、英国のほうがその手法を知っている手前と自国の発明なので、フランスより、シャープさが重視されない状況があったという人もいます(もともとのボケブレ排斥が最も強かったフランスで、20世紀初め頃までにはボケブレに寛容になる変化が起きたあとも、アメリカでは20世紀なかば以降もボケブレを、プロ写真家や学会は糾弾する文化が続きます)


まあ、絵画でも、もともとはルネサンス以降、写実的な絵画が正当とされてきたので、ボケはともかく、ブレやあれには、否定的な「写実主義」絵画グループがいました。まあ写実派でも必要最小限にはボケの技法は使いましたが、最小限のため、作風は平たんなのっぺりしたものが多いです

ギュスターヴ・クールベ(クルベ) (Gustave Courbet, 1819年6月10日 – 1877年12月31日)画家のアトリエ L’Atelier du peintre 1854-55 19世紀のフランスの写実派の絵画だが、ボケの技法を否定してるわけではないのは、奥のほうの人物を見るとわかる

さらに新ロマン主義と対抗していた、新古典主義の画家たちは、19世紀でも、特にボケ、を効果的に生かす作品はまれで、ボケは使われてはいるものの、全体としてパンフォーカスのような絵画が主流ではあったのですが ボケやブレやアレをほとんど使わない、新古典主義者の絵画は、立体感には欠け、奇異に見えるときもあります

サン=ベルナール峠を越えるボナパルトBonaparte franchissant le Grand-Saint-Bernard: ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David) 1801年

上のナポレオンでは、背景はボケてはいるものの、同時期のロマン主義者の絵画などに比べて、ボケ表現はかなり控えめで、新古典派の絵画の特徴ともいえる、やや遠近立体感にかける、平べったく、わざとらしく見えるときもある特徴があります。

ドミニク・アングルJean-Auguste-Dominique Ingres『バルパンソンの浴女La Grande Baigneuse』1808年 日本ではPublic Domain
『ホメロス礼賛』 1827年 “L’Apothéose d’Homère” by Jean Auguste Dominique Ingresジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 新古典派の画家たちは、19世紀になってもパンフォーカス的な、ボケ否定の作風を好むことがおおかった ボケ描写は、背景の建物以外、極力避けられているのがわかります Public Domain in Japan
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルJean-Auguste-Dominique Ingres『グランド・オダリスク』(横たわるオダリスク) 1814 “La Grande Odalisque” : 1840年ごろには普及してきた写真は、隅々までシャープさを過剰に追及することで、ロマン派などの画家などからは「??」などといわれてきたが、同時期の新古典主義者の画家は、写真のパンフォーカスのように、ぼかさず、隅々までシャープな絵画を描き、ボケをあまり受け入れなかったので、写真家たちは、たぶん、こうした新古典主義絵画でボケが受け付けられていなかったこととも参考にしたと思われますが、多数派意見として、絵画のボケやブレ表現は、写真では同じように扱ってはならない、写真では欠点として扱うべきだ、などというカルト文化を生み、20世紀後半まで議論が続きます。

ただ、絵画などほかのジャンルの影響を受けて写真に入り込んだ人々は、ボケやブレを写真の表現に生かすことをタブーと考えないことが19世紀でも多かったわけです。写真界からは異端視されながら、プロ写真家として有名になった人もいます

英国の写真家・Julia Margaret Cameron(11 June 1815 – 26 January 1879)ジュリア・マーガレット・キャメロンは、48歳になってから娘からもらったカメラに興味を持ち、写真家となります。彼女は、現在のスリランカ(当時セイロン)で一族が経営していたコーヒー農園からの収入が期待に届かなかった、夫と息子たちが、スリランカの農園に行くためイギリスから離れた時期で、暇つぶしとさみしさを紛らわせる+当時はまだ希少で、儲けやすかった写真家をしてみたという話があります

彼女はボケはぶれは、アマチュアカメラマンの使う手法という、当時の主流派とは逆の道を進んだ写真家の一人で、

意図的に、ボケ(ソフトフォーカス)を多用した写真を多数制作します

Julia Margaret Cameron A Study 1860年ごろ 著作権は日本では消滅 Public Domain

真ん中の花にピントが合い、モデルたちはピントを外し、右側の少女はぶれているのがわかります

1865年には、the Photographic Society of Scotlandという、スコットランドの写真協会のメンバーにもなりますが、そこへの展覧用に提出された写真を、The Photographic Journalなど写真雑誌で、同業の写真家たちからピンボケのオンパレードと酷評されながら、同じイギリスのThe Illustrated London Newsの彼女のピンボケを生かした作風の応援記事などもあり、意図したピンボケ写真の創作を続け、1865年には英国のVictoria and Albert Museumが、彼女の写真を80点も購入(=美術品としての価値が認められた),翌年にはドイツのベルリンで金賞を受賞。

1868年になると、Victoria and Albert Museumは、彼女にスタジオスペースを提供するなど、同業の写真家たちから酷評されながら、絵画や彫刻なども扱う「広義の」芸術家たちは、彼女の写真を高く評価し続けるという、面白い状態が続きます

1868年には、以下のピンボケポートレートを製作

Julia Margaret Cameron, The Rosebud Garden of Girls, 1868

後ろの花にピントが置かれ、その前にいる女性たちはピンボケの写真。彼女はこれを失敗作としてではなく、作品として出展

彼女は、同じ英国の写真家David Wilkie Wynfield(1837 – 26 May 1887)が、画家でもあることから、絵画では当然となった表現である、ソフトフォーカスをやボケを、写真でも多用した手法を参考に、写真家を始めたというのは、写真を始めた時期がほぼ同じころなので、間違いないといわれています(Cameron自体も美術絵画の素養はあった)

David Wilkie Wynfield(1837 – 26 May 1887)の作品

John Dawson Watson (1832-1892),の肖像 taken in1862 or 1863 by David Wilkie Wynfield (1837 – 1887) Public Domain

顔付近にしかピントがあっていませんね。現在でも、ビジネスポートレート(やふあっしょんポートレート)では、絞りを絞って、衣服までピントを合わせろという基本が残っていますが、19世紀は、特に写真家のサークル内で、こうした顔の部分しかピントが合っていないのは、アマチュア写真家のやることだという批判が多く出たのです。 ただ、モデルになったJohn Dawson Watsonは、自身も画家で、この時代には、絵画では当然となったボケの表現手法には寛容だったので、本人は喜んでこの顔以外ぼけた写真を撮らせたと思われます。

Sir Edward Burne-Jones Bt., A.R.A. taken in ca,1860 by David Wilkie Wynfield (1837 – 1887) Public Domain 日本では著作権切れ

この写真になると、もうわざと顔からもピントを外して、ソフトフォーカス状態にしていますが、この写真でモデルとなったSir Edward Burne-Jones 自体も、画家でありデザイナーであったので、こういうソフトフォーカスでの撮影を依頼した可能性は高い 

そう、画家たち(と画家でもある写真家たち)はソフトフォーカスやブレ、ボケを、写真に積極的に19世紀から取り入れていた、むしろ歓迎していたのです。そして絵画の素養があったり、画家と写真家の二足の草鞋を履く人たちは、ボケやブレやソフトフォーカスといった、当時の写真家のタブーに平然と対抗して撮影活動をしていた

また、19世紀写真のモデルとなった人たちも、写真はシャープに写りすぎる、もっとぼかしたほうがいいという注文を出した、フランスの詩人Charles Baudelaire(シャルル・ボードレール 9 April 1821 – 31 August 1867)もいます 彼は生涯で1855年から1866年の間に、7回肖像写真を撮りましたが、写実的でシャープすぎることに不満だったといわれます

Charles Baudelaire by Étienne Carjat, 1863撮影 Public Domain 著作権切れ

1865年に、Charles Baudelaireが母親に書いた手紙では、パリ以外には、ボケをうまく使ってポートレート撮影ができる写真家が、フランスにはいないと書き送っています

« Je voudrais bien avoir ton portrait. C’est une idée qui s’est emparée de moi. Il y a un excellent photographe au Havre. Mais je crains bien que cela ne soit pas possible maintenant. Il faudrait que je fusse présent. Tu ne t’y connais pas, et tous les photographes, même excellents, ont des manies ridicules ; ils prennent pour une bonne image une image où toutes les verrues, toutes les rides, tous les défauts, toutes les trivialités du visage sont rendus très visibles, très exagéré ; plus l’image est DURE, plus ils sont contents… Il n’y a guère qu’à Paris qu’on sache faire ce que je désire, c’est-à-dire un portrait exact, mais ayant le flou d’un dessin. Enfin, nous y penserons n’est-ce pas? »「母さんの肖像写真をいただきたいのです。 頭にこびりついてるアイデアです。 ル・アーブルには優秀な写真家がいる。 しかし、残念ながら今はそれは不可能なんです。【撮影の時は】僕がいないといけないんです。あなたは知らないでしょうが、すべての写真家は、たとえ優れた写真家であっても、とんでもない癖を持っているんです。彼らは、顔のすべてのいぼ、すべてのしわ、すべての欠陥、すべての些細な点が、非常に目立ち、非常に誇張されている写真を、良い写真として撮影するんです。画像がハード【Dureなのでがっちりした描写という感じの意味か】であればあるほど、彼らはハッピーになるんですよ。【写真家の】人々が、私が望むもの、つまり正確なポートレートを、しかしデッサンのぼかしを使用して作る方法を知っているのは、パリだけです。 そうですね、考えてみましょう。 »
A sa mère, 22 décembre 1865,1865年12月22日、母親へ、
Charles Baudelaire, Correspondance générale,
éd. Conard, vol 5, 1947-53.

*s’est emparée de moi 私の心をとらえた

*maintenant 現在

*Il faudrait que  It is necessary that 必要なんです

* ont des manies ridicules 彼らは奇妙な習慣を持つ

*prennent  capture 撮影

* sache faire どうやってやるかを知る Know how to do

フランスでも、その時代首都パリにはボケ技法を駆使する写真家たちがいました

Charles Nègre(1820 – 1880)がその一人で

夫人とその娘 1853ごろ Charles Nègre撮影 public domain in Japan
Trois ramoneurs au repos quai Bourbon (v.1851) ブルボン川岸(通り)で休む三人の煙突掃除人 1851年ごろ撮影 Charles Nègre public domain in Japan
Charles Nègre | Portrait d’un homme devant la maison de Charles Nègre, Quai Bourbon, vers 1856 シャルル・ネグレの家の前に立つ男性の肖像、ケ・ブルボン通りpublic domain in Japan

ですが、プロの写真家たちの多くは、ぼかす表現を用いる撮影手法は、アマチュア写真家のやることだと、攻撃することが多く、

1857年のla Société française de photographieフランス写真協会は、Anon., “Rapport sur l’exposition ouverte par la Société en 1857 (suite et fin)”, BSFP, t. 3, septembre 1857, p. 276.(1857 年に協会が開いた展示会の報告(続きと終わり))で

si quelques artistes ont trouvé dans ce flou même un certain charme, le plus grand nombre se sont vivement récriés, prétendant que la photographie n’a pas le droit d’employer de tels effets, et qu’une netteté parfaite est toujours pour elle une condition absolue 一部の芸術家はこのぼかしに魅力を感じたが、大多数は強く反対し、写真にはそのような効果を使う権利はなく、完璧なシャープネスが常に絶対条件だと主張した。

*netteté 最近は別の単語使うようだが、この時代はシャープさの表現でこの単語

*se sont récriés 反論、反対する

*vivement 強く、鋭く

と、ボケやブレを使う連中が写真家にいることは確かだが、圧倒的少数状態であり、できる限り全面がシャープな写真が、絶対条件だと写真家協会で報告されていたわけで

19世紀のプロ写真家コミュニティー全体としては、、ブレ、ボケは写真表現として異端=邪道ととらえる人が多かった。特にフランスで

まあ、英国でも写真家たちには邪道とはされましたが、ボケを生かす作風で、ほかの美術家の支援で美術館などに支援されたプロとして活躍した人も、Cameronなど少なからずいましたし、

英国のFrancis Frith(England 1820-1899)は、当時有名だった風景旅行写真家でしたが、旅行写真は可能な限りシャープであるべきと考える半面、1859年までのカメラはもう要求以上の性能があり(当ブログ21世紀の今でも、解像足りないとかネットで騒いでますがw)、さらに風景を芸術写真として考える場合は、シャープすぎるのは逆に害だとしていました(Russell Young 2008:15-16)

こんな中、イギリスでは、シャープ過ぎない、そこそこに解像しかしない、風景撮影用のレンズの開発が、レンズ開発者たちによって1863-1864年ごろに考えられていました。George Wharton Simpsonとかね(Russell Young 2008:16)

まあ、そうした流れを激しく糾弾する写真家たちは、ソフトフォーカスレンズは退化と言っていたわけですがw

とりあえずは、レンズがいらなし、安価に製造できる原始的なピンホールカメラが、シャープな写真を好まない写真家たちの間で少なくとも、1890年ごろまでは多く使われていました。

しかし原始的なピンホールカメラには限界があり、

本格的なソフトフォーカスレンズが、市販のThe DallmeyerBergheim lensとして、1893年に登場

Dallmeyer Lenses

フランスでは、写真=記録としてシャープさを過剰に追及する流れが、英国より支配的でした。

ただ、フランスでも、写真を、絵画や版画などと同じような、芸術の手段と考える人たちは、Constant Puyo(November 12, 1857 – October 6, 1933)のように、ピグメント印画法などを通じて、シャープ一辺倒が多数の当時の作風とはことなる、フランスでの写真のPictorialism(ピクトリアリズム=絵画主義)の普及に努める人間がでました。

彼は、ピグメント印画法などプリント時の工夫でブレやソフトフォーカスを得るのではなく、撮影時のレンズによって思いのままにボケやソフトフォーカスのある写真を撮影する研究をし、1902年には、Jean Leclerc de Pullignyとともに、ソフトフォーカスレンズのObjectif d’Artiste Anachromatiqueの開発と発売をしました

Arthur Miniot (1851-1923) Attribution-ShareAlike 4.0 International (CC BY-SA 4.0) https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/

フランスの写真家、

Eugène Atge(1857–1927)は、画家の下絵として、町の写真を資料として撮影する仕事を、1890年ごろ始めます

取り壊しの可能性のある建物も対象で、画家の作画の資料としての撮影ですから、ブレやボケなどはご法度の、資料撮影でした。

しかし、当時のカメラは、

被写界深度が稼ぎにくい、大判カメラで、まだ感光材の感度が非常に低い時代のため

1:どうしてもテーマによってはボケる (大判カメラはぼかすのは、被写界深度が薄い+ティルトあおりで簡単に出せ、逆にピントを深く出すにはあおりなどのテクニックが問われた)

2:現在でいうと、フルサイズで、ND1000やND500フィルターを常時かませて撮影するようなものなので、数秒露光が珍しくないので、どうしても、被写体などが動いたものがぶれや、ボケとなって写真となって出てくる *19世紀のCameronは、まだ感光感度が不十分な時期で、5分露出したともいわれる

ことが普通でした

というわけで、Eugène Atge(1857–1927)によって、以下のような写真も撮影されました

人物が大急ぎで店を行き来する 残像が映り込んだスローシャッター効果写真

Eugène Atget. Au Petit Dunkerque, 3 quai Conti. 1900  日本での著作権は、1927年に死んだ彼のものには存在していません ので著作権切れ Public Domain in Japan

当時はまだ数秒露出時間があったので、その間、白い馬が動いちゃったため、ぶれてぼけている写真

Eglise Saint-Médard, 141 rue Mouffetard, 5ème arrondissement, Paris (Titre factice) | St Médard (Eglise (Ve) (Titre donné par l’auteur) 1927年に死亡した彼の写真は、日本では著作権が消滅

彼が、こうした、ぶれたりぼけたりしているものが映り込んだ写真を、狙って撮影したのか、それとも、撮影時に意図せず人間が立ち入ってきたり、あるいは露光中じっとしてくれると思っていた馬がいきなり動いたとか、

どちらの結果かはわかりませんが、

Eugène Atgetの死の直前、これらの写真を高く評価する流れが起き始めました

また、ピクトリアリズム(絵画主義)運動が始まって20年ごろした、1910年代末期からは、肖像ポートレート写真でも、ボケを取り入れた写真撮影を請け負う、写真館がフランスのパリでも多数出現することになります。

目と鼻と口以外はぼかす、ポートレート撮影手法でしたが、 Gaston & Lucien MANUEL(Manuel兄弟)Henri Martinie(1881-1963)などがよくしれれています。

Roland DORGELES – Ecrivain – (1885 – 1973)ローランド・ドルゲレス – 作家 – (1885 – 1973) 撮影Gaston & Lucien MANUEL(1900-1939) 日本では著作権切れ(Public Domain in Japan)
Portrait d’Utrillo, 1930年撮影Henri Martinie 日本では著作権切れ(Public Domain in Japan)

こうした肖像写真では、こうしたソフトフォーカスやボケの技法がフランスの商業写真家の間でもようやく広まったわけで

フランスや英国など欧州では、ボケ・ブレに関する批判めいた発言は弱くなり、職業写真家たちの間でも、ボケブレは20世紀はじめには認知されてきました。が、

しかし、ボケ、ブレ、ソフトフォーカス批判者は、特に北米ではしつこく残り、プロ写真家協会や、写真専門雑誌などでは優勢で、ボケブレ愛好者をアマチュアと攻撃する流れは、人物写真以外では、相変わらず優勢で、20世紀後半までつづきます



Eugène Atget

French, 1857 – 1927

Atget, Jean Eugène Auguste; Atget, Eugene; Atget, Jean-Eugène-Auguste

https://www.nga.gov/collection/artist-info.13548.html

Eugène Atget – Voir Paris

Jeudi 03 juin 2021 – Dimanche 19 septembre 2021

https://www.carnavalet.paris.fr/expositions/eugene-atget-voir-paris

David Wilkie Wynfield (1837 – 1887)

https://www.royalacademy.org.uk/art-artists/name/david-wilkie-wynfield

Mrs. Julia Margaret Cameron (1815 – 1879)

https://www.royalacademy.org.uk/art-artists/name/julia-margaret-cameron

Julia Margaret Cameron (1815–1879)

Malcolm Daniel. Department of Photographs, The Metropolitan Museum of Art

October 2004

https://www.metmuseum.org/toah/hd/camr/hd_camr.htm


La photographie au temps de Baudelaire
Magali Nachtergae

HAL Id: hal-00744963
https://hal.science/hal-00744963
Submitted on 24 Oct 2012

« Le flou du peintre ne peut être le flou du photographe »

Pauline Martin 2010

Études photographiques

https://journals.openedition.org/etudesphotographiques/3060?lang=en#ftn44

THE SOFT-FOCUS LENS AND ANGLO-AMERICAN PICTORIALISM

William Russell Young, III 2008

PH.D thesis at the University of St. Andrews

https://research-repository.st-andrews.ac.uk/handle/10023/505


風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】

写真の歴史ヘリオグラフィーから始まった現存最古の風景写真:写真が大きく普及するのは、ダゲレオタイプ(銀板写真法)の発明から

ウィリアム・クラインWilliam Klein ストリート写真の森山大道に影響を与えた人【アレ、ブレ、ボケを作品に】

日本では、芸術としての写真を追求する人は、プロではなく、アマチュア写真家だとする風潮が1980年代ごろまであった:日本のブレ、アレ、ボケ表現の初期

ボケ(Bokeh)の用語起源【写真撮影】The Origin of Bokeh in Photography; Flou (French) vs Bokeh(Japanese)

写真におけるボケ、ブレ、アレなど、不完全性を表現に取り入れる作風の歴史

日本語のBokeh(ボケ)が、写真のピントの合っていない領域の描写を示す言葉となった経緯【ボケはあいまいさを尊ぶ日本の文化が写真に反映されたというバカ学者・ライターたちを検証】フランス語のFlouと日本語起源のBokeh

28mm[フルサイズ]を「標準」レンズとしたストリート写真家、アメリカのウィリアム・クライン(William Klein)【広角ポートレート28mmの特性】

写真の歴史ヘリオグラフィーから始まった現存最古の風景写真:写真が大きく普及するのは、ダゲレオタイプ(銀板写真法)の発明から

1950年代、写真のボケ、アレ、、ブレを前面に押し出した写真表現で有名となった、アメリカのウィリアム・クラインWilliam Kleinの話を追跡するうえで、写真はジャスピンで、ブレがなく、隅々までシャープでなけばならないといった、妙な「神話」に当時の写真界が取りつかれていたのに挑戦した彼クラインは、本当に先駆者だったかを確認する作業がいります

写真家ウィリアム・クラインについての、日本の三文学者の駄文を見ていると、クライン以前の写真家はボケなどの表現をご法度にしていた、ように見える読書感想文を書いてるのがいますが

こういうのを見ていると、おかしな学者だなあということに気が付くのです

というのも、ボケの技術やブレの表現は、写真が始まる前から、絵画の世界では常識の技法として広く認知されていて、初期の写真家は絵画もかじっている人がいるのが珍しくなく、当然の技法であったのですが、なぜかそういう人たちも、写真の話になると、ピントは隅々まであって鮮明なピントがあるのが要求されるなどと、言い出していた謎があります

まあ、現在この辺り調査中なのですが、その経過で写真の発明の話も少しかじっているため、世界最古の風景写真などの話をしましょう


カメラの原理自体は16世紀ごろには作られていましたが、その画像をどうやって固定定着するかの技術は、不明のままでした

1798年、石版印刷(リトグラフ)という、石灰石の石板に、リトクレヨン(脂肪分の多いクレヨン)などで描いた原画に、アラビアガムと硝酸を混合した弱酸性の溶液をかけると、彫刻せずとも版画の原版になるという技術が偶然から発見され普及しましたが、

ほかの方法で、似たようなことができないかと、

フランスの発明家

Joseph Nicéphore Niépce 、1765年3月7日 – 1833年7月5日が挑戦し、

19世紀に入ってまず、アスファルトの一種(bitume de Judée)は、光線に当たる部分は、固まり、光線の当たらない部分は、固まらず、油(ラベンダー)で洗うと流れ落ちる原理で、

このアスファルトを塗った板(スズの金属板)に、

ニスなどで半透明にした絵画を、太陽光のある場所にかぶせて置くことで、複写を行うことができる技術が開発され、L’héliographie ヘリオグラフィー=太陽で描くと呼ばれ

写真の原型が誕生します (L’héliographie ヘリオグラフィーの名称は、1853年ごろまで使われた)

時期は1822年ともいわれます

さて、その後彼は、絵画や版画の複写ではなく、瀝青(れきせい)を、アスファルトの代わりに用いる技術で、ピンホールカメラでの写真撮影に挑戦し、1824年ごろには成功したとされます

現在残っている原版

Joseph Nicéphore Niépce’s “View from the Window at Le Gras.” c. 1826. Photo by J. Paul Getty Museum. 1826年ごろ撮影したといわれる世界最古の風景写真 著作権切れ Public Domain
Helmut Gersheim (1913–1995)がコダックに依頼し、1952年ごろに作られた、Joseph Nicéphore Niépceの原版を手動でよく見せるように調整した写真 パブリックドメイン(Public Domain扱い)

影の部分が写真の両側にあることから、太陽が左から右端にまで移動する間、露出をしていたと思われ、露光時間は8時間、あるいは20時間という人もいる

その露光時間の長さから、写真はまだ実用段階ではなく

彼は、ダゲレオタイプ(銀板写真法)という、銅の板に銀をメッキし、ヨウ素の蒸気を当ててヨウ化銀とし、撮影をした後に、水銀蒸気で「現像」する という、撮影時間が少なくなるタイプの写真の開発に取り組んでいましたが、

途中で死んでしまい、Joseph Nicéphore Niépceと、共同開発に加わったルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787年11月18日 – 1851年7月10日が、撮影時間を数分から数秒にまで減らす改良をし、実用的な写真技術として普及することになりました。(イギリスでほぼ同時期にタルボタイプという方式が発明されましたが、鮮明さで全く歯が立たなかったので、ダゲールの方式が広まった)

Louis Daguerre, Paris Boulevard (or View of the Boulevard du Temple), 1839, daguerreotype 著作権切れ

さて、こうして登場普及した写真技術ですが、

初期の写真家たちは、絵画なども習っていた人も多く、ボケの表現方法なども知っていた人が多いのに、写真ではボケ厳禁などという立場をとる人が多くなり、

現在も、風景写真は隅々までシャープに解像するのが求められる

という、よく考えたら、人間の認知科学や、美術表現理論に反することを平気で広めて歩く、プロ写真家と名乗る人たちがいますが、

風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】

これって、19世紀からの、写真に関しては、ぶれもボケもあってはならないと、変な主張を始めた人たちの歴史の遺物が21世紀にも残っている

からとも言えますね


カメラの歴史をみてみよう

フィルムのなかった時代

キヤノンサイエンスラボ・キッズ

https://global.canon/ja/technology/kids/mystery/m_03_01.html

アメリカではダゲレオタイプとほぼ同時に、紙を使うタルボタイプが登場しましたが、シャープさで圧倒的に落ちるため普及しませんでした

タルボタイプ(カロタイプ)の発展しなかったアメリカ

第三章 ③

2010年11月10日 玄光社 Shuffle 安友志乃

https://shuffle.genkosha.com/special/studies/people/7655.html

「ダゲールとタルボットがカメラオブスクラの像の定着に成功したことが新聞によって伝えられたのは1839年3月… タルボタイプに複製が可能である、という大きな利点があったにも関わらず、人々を魅了せず、この時点で産業を押し上げる要因ともならなかったのは、タルボタイプによって再現された像があまりにも不鮮明であったと同時に、プロセスに非常に時間がかかったためです。…わずかなプロたちでさえ不鮮明さに根を上げ、しまいにはダゲレオタイプに戻ってゆきました。]安友志乃記事引用

と、ダゲレオタイプの鮮明な写真に、歯が立たなかった実情があったとされています

1851年のイギリスでのガラス湿板(しつばん)の誕生により、欧州では、ダゲレオタイプの写真は急速に衰退しますが、アメリカではダゲレオタイプがしばらく根強く人気でした

人々の歩み

世界を牽引するアメリカン・ダゲレオタイプ

第二章 1846−1855 ⑤

2010年07月28日 玄光社 Shuffle 安友志乃

https://shuffle.genkosha.com/special/studies/people/7537.html

の記事にもあるように、欧州では手作業でタゲレオタイプの感光材を作っていたのに、アメリカでは大量生産技術が進歩し、非常に高精度のタゲレオタイプの感光銅板を作っていたので、価格も安く、品質も欧州のものより優れていたので、ガラス湿板に置き換える必要性がしばらくなかったからです


感性の赴くままに写真を撮影することも、あるいは正解の場合もある:ウィリアム・クラインWilliam Klein ブレ・ボケ・アレを写真表現として確立したアメリカの写真家

写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち

スローシンクロ(低速シャッターと発光時間の短いストロボの同時利用)で、水上ボートなどの動きのダイナミックな動きを表現【Youtubeで学べる撮影テクニック】ブレを表現に活かす

1/15秒や、さらに8秒、30秒といった、遅めのシャッタ-速度を用い、被写体などをブレさせて、動きや、滑らかさを表現するのも、写真では普通ですが

下のような高速のボートを撮影するとき、1/15のようなシャッター速度で撮影しても、ボートがブレブレに写りすぎることがあります

Slow Shutter Speed Secrets: Capturing Motion遅いシャッタースピードの秘密: 動きを捉える

ブレすぎを抑える手法の一つとして、ストロボを同時にたくという方法があり、

上のボートの撮影では、1/15秒というスローシャッターと同時に、数千分の一から数百分の一秒の非常に短い時間発光する、ストロボを発光させて、ボートのぶれ方を減らすテクニックで撮影

動画6:03あたりから、この撮影は、カメラに取り付けたクリップオンストロボの照射角を、広角にセットして撮影したということを解説

右側のボートの船首部分は二重線のようにぶれていますが、ボート本体の形は認識できるくらいに、ブレを低減できています ボートに乗る人々の顔も、ストロボ発光がなければ全く識別できなかったでしょうが、同時にストロボを焚いて一瞬動きが止まった顔も、ぶれている写真の中にブレンドされて残るため、人々の表情もわかるようになっています

まあ、写真全体としてはぶれた写真となるわけですが、高速で動くボートの表現の写真としては正しい

という

ブレも写真の表現の技法という、クラインが提唱した表現法とも言えますかね?


まあ、シャッター速度を遅くして、発光時間の短いストロボを発光させ、独自の動きを再現するのは、古典的なテクニックですし、動きを出す以外にも、低速シャッターで動きを止めるためにもストロボが用いられることも普通なので、応用を含め、色々解説記事がありますが

紹介

玉ちゃんのライティング話

第24回 スローシャッターを使った表現

解説 : 玉内公一

2011年10月04日 玄光社

https://shuffle.genkosha.com/technique/lighting/7913.html

スローシンクロすろーしんくろ

キヤノン

https://ptl.imagegateway.net/contents/original/glossary/%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD.html

【阿波おどりの撮り方③】ダイナミックな「男踊り」はスローシンクロで動感を引き出す

小田切裕介

2018/8/8 8:00 CAPA

https://getnavi.jp/capa/special/258223/

第134回 イルミネーションと人物の関係今日から始めるデジカメ撮影術

2010年11月25日 11時00分 公開

荻窪圭,ITmedia

https://www.itmedia.co.jp/dc/articles/1011/25/news021.html

スローシンクロ

薮田織也

https://aska-sg.net/glossary/pages/sa/surooshinkuro.html

ニッシンデジタル Nissin Digital

2022夜桜スローシンクロ(手持ち)【初心者向け】Youtubeストロボ講座 覚えておきたいストロボ・ライティングの基本