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カテゴリー: 風景写真とシャープネス、解像絶対主義の神話の真実

周辺減光と、レモンボケ(猫の目ボケ)は、悪いものか?交換レンズの性能評価の「常識と非常識」【5ちゃんとかのバカを相手にする前に】

写真は、機材趣味と、撮影評価の双方の観点から、矛盾する事項が多いので、機材マニアにとって良いレンズは、実際の写真撮影には人間の知覚を無視した、美術理論に反する描写を作るレンズ

となるのも普通です

ネット便所のように数字化しやすいところだけ見てレンズの性能云々とかやっているのを見て、それが正しいと信じちゃうと

表現者としてレンズを使う場合、間違った偽科学を刷り込まれてしまう場合もあります


周辺減光とレモンボケ(猫の目ボケ)、

これらは、わかりやすいレンズ性能評価として、ないほうが高性能、という評価をなされることも多いですが

実際は多少あったほうが、人間の知覚には好ましいというのが、長年の美術理論や人間の認知科学で示されています

周辺減光やレモンボケは、あってはいけないように価格コム(バカが書き込む)や、万個連呼変態爺が時々、当ブログに乱入してくる、便所の5ちゃんに住み着いてる書く暇人もいますが、

風景写真で有名な、Ansel Adamsアンセル・アダムス(February 20, 1902 – April 22, 1984)は、写真をプリントするときに、写真の周辺を手作業で暗くして、周辺減光のように加工し、その作業を、エッジバーニングedge burning(周辺の焼きこみ作業)と名付けた。

そう、周辺減光は主題を浮き上がらせるのに必要な要素なので、アンセル・アダムズは、プリントするときに周辺減光を加工して付け足していたんです

画像周辺の光源ボケが丸くならない現象、猫の目ボケ=レモンボケ=口径食は「悪」、というようにレンズ評価をする人もいますが、逆にレモンボケが周辺まで全くないのも、

見る人の視線誘導の理論から言うと、好ましくないことも多々ある

こともあり得ます 画面中央から周辺にかけて、玉ボケが均一な丸すぎると、真ん中のモデル=主題への関心を誘導するのにかえって邪魔なこともあるからです

NIKKOR Z 135mm f/1.8 S Plena | The Making of Plena: Part III | AF system
NIKKOR Z 135mm f/1.8 S Plena | Behind The Scenes | ニコン

真ん中のモデルより、ボケのほうが主役になってますね。

ボケを主役にしたいならこれはありです

が、モデルが主役なら、大きく周辺まで均一なボケは、人間の目をモデルからそらしてしまうので、ある程度周辺が乱れたほうが、

モデルに関心を持って行かせたい場合は有効です

まあ、ボケか、モデルのどっちが優先かという話になってきますw

実際、印象派の絵画を見てみましょう。印象派は、初期の写真レンズの開放絞り近くでの渦巻くボケに、その手法のヒントを得た可能性がありますが、後期になると、背景を渦を巻くように描くのが珍しくない。

カナダの印象派の画家Helen Galloway McNicoll RBA (December 14, 1879 – June 27, 1915)のSunny September《よく晴れた9月》1913

Public Domain in Japan 日本では著作権消滅

要は、周辺を少し渦を巻くように描くことで、中心部に鑑賞する人間の視線を集める効果を考えた可能性が大です

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Sony A7r III, Sony FE 85mm f/1.8, 1/800 f/2.0, ISO 100,

https://www.juzaphoto.com/galleria.php?l=en&t=2858789

周辺が渦を巻くのを嫌がる人も多いですが、周辺が流れたようになることで、人間の視線を中心にもっていかせる効果もあります 周辺の猫の目ボケ(レモンボケ)にも似たような効果があります

Sony A7r III, Sony FE 85mm f/1.8, 1/250 f/7.1, ISO 640,

*https://www.juzaphoto.com/galleria.php?l=en&t=2823516

Valentina sent on July 11, 2020 (7:59) by Gagarose

Sony A7 III, Sony FE 85mm f/1.8, 1/640 f/2.0, ISO 100, hand held.

*https://www.juzaphoto.com/galleria.php?l=en&t=3653785

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種清豊のフォトコラム

2013.06.14【Vol.120】

周辺減光の話

https://www.kitamura.jp/photo/tanekiyo/2013/ta120.html


ボケの歴史:写真と絵画の相互影響、印象派の作品と初期写真レンズの渦巻きボケ表現

135mm F1.8単焦点レンズ、ポートレート撮影に本当に必要かどうかを買う前に考えよう【機材ガイド】「大きなボケが主役になってしまう」とよくない場合があることに注意

写真レンズのボケ表現のこだわりは、日本起源であるという都市伝説【学校の怖いにせ科学の話 レンズのボケと写真表現の話】The True History of Bokeh

ピントが外れた部分のボケ描写に特にこだわるのが日本の写真文化であったという都市伝説が、近年日本の大学の学者とかいう三文教師とか、ライターなど、頭のぼけた昭和の低学力(仕事の学力小学生世代)にいますが、

1:20世紀初頭まで、レンズ設計はダブレット(二枚構成あるいは、二群4枚)が関の山だったので、

絞りを開けるとボケがぐるぐるになり、絞らないと背景が安定しないレンズだらけで、

個別のレンズの個性的なボケを評価する土壌が出来上がるのは、いろいろな近代レンズのもととなる光学ガラス構成のレンズが出回る、20世紀初頭前後になってからで、

2:1902年に登場したドイツ改良ヘリアー(Heliar)型光学レンズHeliar Lens F4.5が市販されると、その「ボケ」の良さで、当時の欧米のポートレート職業写真家たちの間で大人気となった

歴史は、

ボケ(Bokeh)の用語起源【写真撮影】The Origin of Bokeh in Photography; Flou (French) vs Bokeh(Japanese)

1890年ごろから、1930年ごろまで顕著だった、ソフトフォーカス的な手法が目立ったピクトリアリズム(絵画主義)の時代:写真をぼかす表現技法の歴史 ボケと写真

日本語のBokeh(ボケ)が、写真のピントの合っていない領域の描写を示す言葉となった経緯【ボケはあいまいさを尊ぶ日本の文化が写真に反映されたというバカ学者・ライターたちを検証】フランス語のFlouと日本語起源のBokeh

で話をしてきました

要は、ボケは日本の特有の文化のような、妄想を振りまく三文学者やライターがいかに妄想の世界で生きているかがわかるものです。

まあ、レンズ設計の違いによるボケの質の違いを、多くの人が評論できる土台は、ライカ判などの小型カメラが普及する、さらに写真がより一般人の手に届きやすくなる1930~1950年まで、存在しえなかった

3:19世紀にはレンズをわずかにピントを外して、微妙にボケさせることで、輪郭のきつくない、自然な柔らかい輪郭を生み出す手法が、英国やフランス、欧米で、画家や、画家から写真手法を習った人たち(ピクトリアリズム絵画主義とも呼ばれる)に、はやっていて、職業写真家たちからの猛烈な攻撃を受けながら

ほかの美術家たちの支援を受けて、1財産できた人もいました

その一人が、Julia Margarete Cameronという英国人。以下のように、常にピントを全部ぼかすのではなく、シャープなピントのある部分のある写真も撮っていましたが、わずかにピントをずらすことで生じる「ピンボケ」を生かしたソフトフォーカス風の写真を多数撮影

May Day by Julia Margaret Cameron in1866 日本では著作権消滅 Public Domain in Japan

写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち

証拠はないですが、19世紀は特に画家と写真家は相互に学びあっていたので、初期の写真レンズの開放絞り付近の渦巻きボケにヒントを得て、19世紀後半あたりからの絵画の印象派の作風ができた可能性もあります(今では悪いボケとされるぐるぐるボケに、当時の絵画の画家たちが美を見出したのか?)

ボケの歴史:写真と絵画の相互影響、印象派の作品と初期写真レンズの渦巻きボケ表現

ちなみに、批判を受けながらフランスで19世紀中ごろ、ボケブレを使った写真を撮影していたCharles Nègre(1820 – 1880)の写真

by Charles Nègre(1820 – 1880 France)ボケのみならず、ブレもあります。著作権切れ Public Domain in Japan

19世紀中ごろ以降から活発になったフランスなどの印象派の絵画のヒントになった可能性はあります(本人たちが、その画風が写真から影響されたとかいう日記でも残ってない限り直接の証拠はない)

ちなみに、印象派の代表格の一人、クロードモネ(Claude Monet, 1840年11月14日 – 1926年12月5日)

モネ 散歩、日傘の女 1875 La Promenade, la femme à l’ombrelle

てなわけで、

日本人が写真のボケ表現に特別造詣が深い文化を持っていたというのは、かなり笑わせる都市伝説で、オタ話を真に受けているめでたい文化人が日本に多すぎとも言えます

ただ、写真は隅々までシャープでなければならないとする、写真技術誕生後から大きな勢力であった「写真」=記録主義者が、職業写真家協会などでは19世紀は支配的で、ボケなどは技術的欠陥、アマチュア写真家のやることととして排斥していました(ただ、ボケ志向の写真家が、プロ協会の会員になったりするのを拒否されるわけではなかった)。

20世紀にはいると、カメラの低価格化と銀塩フィルムの普及や現像サービスの普及に伴い、アマチュア写真家が激増し始め、彼らが、隅々までシャープな写真にこだわるプロ写真家たちに対抗する勢力にまで成長し、フランスのこうした人たちは、ピントが合っても、ボケたようにソフトに写るソフトフォーカスレンズの開発や販売まで行います。

ブレを異端とする声が一番大きかったフランスのパリにも、1920年代前後には、ボケ技法を堂々売りに出す写真館などが続々建てられるようになります。

しかし、主に職業写真家の抵抗は長く続き、アメリカのクラインWilliam Klein, 1926年4月19日 – 2022年9月10日が、1956年にボケ、ブレを前面に出した、ニューヨークの写真集を出版し、1957年に、かつて世界で一番プロカメラマン業界がボケ写真に批判的だったフランスでの、写真集に与えられるPrix Nadar賞を受賞した後、大反響となった後でも、

1970年くらいでも、ボケを異端視する勢力は強く、21世紀になっても、特に風景写真は隅々までピントが合ってシャープであるのが望ましいとかいう、カルト文化として残っています。

まあ、20世紀の風景写真の巨匠といわれたアンセル・イーストン・アダムスAnsel Easton Adams, 1902年2月20日 – 1984年4月22日)は、以下のようにパンフォーカス主義者でしたし

The Tetons and the Snake River (1942) Grand Teton National Park, Wyoming. National Archives and Records Administration, Records of the National Park Service. (79-AAG-1)、By ANSEL ADAMS(1902 – 1984) Adams was employed by the US Government to take this picture.Under section 105 of the Copyright Act of 1976, therefore, this photo has no copyright. **アンセル・アダムズは1989年に死んだので著作権はアメリカでは有効ですが、この写真に関しては、アメリカ連邦政府に依頼された記録写真撮影の仕事で撮影されたもので、米国の連邦著作権規定により、著作権は生じないことになっており、パブリックドメインの扱いです(日本の法律ではそうならないとか言い出しても、元のアメリカの権利者が法律で著作権放棄しているので、著作権侵害は生じない)日本だと、旧著作権法の写真著作権、撮影または公表時13年(1970年末までの期限が来ていれば、そこで著作権消滅)と、サンフランシスコ平和条約の戦時加算約10年で、1946以前あたりに撮影されたアンセル・アダムズの写真は日本では著作権は消滅しているとも言えます

どうしても、写真は科学記録の手段であるという側面もあるため、これを聖典のように祭り上げてしまい、写真も絵画と同じく創作の手段である、という。これもまたれっきとした科学的事実に目をそらす人たちが多いのも、ボケアレルギーのようなことをしゃべるプロ写真家が多い理由なのかもしれません

また、ボケに寛容な言論が増えてきたのは、カメラメーカーレンズメーカーがより高く売れる、ボケやすい大口径レンズを開発し、それを売りたいので、19世紀や20世紀前半ごろとはことなり、

ぼける写真=素敵

という風潮を広めるようになったのも、一因でしょう


もともと画家たちのグループは、1830年以降台頭してきた写真に興味を持ち、ドガなどは、モデルに窮屈なポーズを長時間させて、モデルたちから不評だったので、自分でモデルにポーズをとらせて写真を撮るまでになっていたし、その前のドラクロワは、自分では撮影しませんでしたが、知人(姓が同じなのでたぶん親類)にモデルなどの写真を撮らせて自分の絵画の参考資料にしていましたが、

画家たちは、

写真家は、全面ピントが合った、不自然なシャープネスと解像にこだわっているが、

そんな不自然なエッジの立つシャープなものは自然界に存在していないのだから

写真は偽りの記録であるとまでいう人も珍しくなかった

一方の写真家は、商業写真としては絶対シャープ、パンフォーカスは基本であるという立場をとりながらも、アート作品として風景写真を考えるなら、過剰なシャープさをありがたがっている写真家たちの在り方はおかしいと理解を示す人もFrancis Frith(England 1820-1899)などにいました

1890年Peter Henry Emersonが出版した、写真の芸術作品としての限界を認めた「The Death of Naturalistic Photography 自然主義写真の死」写真は芸術かの議論の歴史

というわけで、

繊細な日本人が、写真レンズの生み出すボケの美を独自に発展させ、それがボケという言葉となって、海外でBokehとして広く広まった

とか言ってるのは、

夢のお花畑の可能性がありますw


風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】

1839年に最初に商業化されたカメラに搭載の一群二枚のアクロマートレンズDaguerreotype Achromat 2.9/64の復刻版レンズ

135mm時の玉ねぎボケ問題が解消?Tamron 70-180mm F/2.8 Di III VC VXD G2. Model A065. AFは先代から大きくは改善せず

ドイツの英語でのカメラ記事サイト

Review: Tamron 70-180mm f/2.8 Di III VC VXD G2

BastianK

https://phillipreeve.net/blog/review-tamron-70-180mm-f-2-8-di-iii-vc-vxd-g2/

タムロンから2週間の貸し出しでのテスト 4200万画素Sony A7RII

レビュー記事作成者はスポーツとかは撮影しないので、

Autofocusで

早い動きの追従性はよくわからないが、一般の日常的な撮影では静かで速いAFといえるとしています

周辺減光

70mmで、F2.8時、最大 2.1ev 180mmで 2.2evと、小型レンズなので、少し大きめ

F5.6で 70mm 0.5 ev, 180mm 0.8ev となる

シャープネスSharpness

全域良好で、70-180mmの先代では、一番よくなかった135mmが、この2型では一番よくなっている ただズームレンズは製造誤差が単焦点より出やすいので、誤差はあるかも

中心部はどれも解放から良好で、隅はF5.6以上絞ると、ぐっと良くなる

新型の撮影倍率は、70mmで (1:2.6)であり、旧型の70mm 1:2のハーフマクロ能力はなくなっている 旧型で顕著だった、最短撮影距離のField Curvature(像面湾曲)は、新型では大幅に減ってはいるが、まだ目に付くほど大きい 絞ってもしつこく残るので、平たいものを複写したいのなら、このレンズは要注意

光芒はF4あたりから出だす

コマ収差 

70mm F2.8で少しある以外は、ほぼ心配いらない

ボケ質(Bokeh)は、先代の70-180mmは、135mmのポートレート距離で目立った玉ねぎボケが出るのが弱点とする人もいましたが、このG2については特に悪いともよいとも評価はない まあ末尾にこのレンズの良いところとして、ボケは大体はよいと長所にしていますが

逆光性能は非常にいい

倍率色収差補正は、強制でオンとなっていて、カメラ側でオフにできないようにG2ではなっている

longitudinal CA(Spherochromatism)軸上色収差は、画面周辺に、限られた条件にパープルフリンジが出ているくらいで、良好に補正されている


さて一方のフランスの

By Marc Alhadeff on 14/09/2023

Tamron 70-180mm F2.8 Di III VC VXD G2

繰り返しになる項目は避けて、上のドイツサイトで扱わなかった早い動き物のAF性能の項目を見ましょう(このサイトでは Sony A1(5000万画素)と Sony A7RIV(6100万画素)が使われる)

La performance AF est bonne comme sur la V1 mais pas très bonne non plus(Sony Alpha Blog 上記記事引用). AFのパフォーマンスは、一型のようによいが、すごく良いわけでもないと、AF性能は2型になっても大差がない

Il y a pas mal de ratés en rafale quand le sujet s’approche à courte distance et même sur les sujets statiques comme pour des portraits il y a un manque de précision à F2.8 et donc pour 1 photo sur 3 on atteint pas l’excellence mais seulement le grade très bon sur 50Mpix(Sony Alpha Blog 上記記事引用)被写体が至近距離に近づくと、連射失敗がかなり発生し、ポートレートなどの静止した被写体でも F2.8では【ピント】精度が不足するため、3 枚中 1 枚の写真はエクセレントには達せず、5000万画素機【ブログで使うSony A1】では、非常によい結果にとどまります。

と、あまり動かない被写体でも、三枚に一枚はジャスピンにならないと報告、1200万画素のA7SIIIなら、気にならないかもねw

Tamron 70 180 F2 8 Di III VC VXD G2 Burst

シャープネステストを6100万画素機でやっているのは割愛


ソニー純正レンズ、特にGやGMは、高速なリニアモーターを2~4個搭載しているので、モーターが一個しかないシグマやタムロンが、特に近距離の速い動きで勝ち目はないのは、

スポーツ撮影では圧勝のSony FE 70-200mm F2.8 GM IIと、Tamron 70-180mm F2.8, Sony FE 70-200mm F2.8 GM海外性能検証

でTony & Chelsea Northrupさんらのテスト

タムロン 70-180mm 81枚のヒット

ソニー旧型70-200mm 2.8 GM 135枚のヒット

ソニー新型Sony FE 70-200mm F2.8 GM II OSS 263枚のヒット

しかもミスショット率は、ソニーレンズの倍と

以下、

緑色がヒット数

濃い青緑がトータル撮影数

結果表示

上記Tony & Chelsea Northrup、cited from Youtube動画より引用 https://www.youtube.com/watch?v=bIqa8djHp68

というわけで、Tamron 70-180mm G2も、上と旧型とよく似た結果にしかならないのは、高速で向かってくる被写体ならありうる


周辺画質があ~

とかいうのは、19世紀から、写真家の間での「カルト宗教」、「写真は隅々まで解像してシャープなものが正しい」、というのが、風景写真には21世紀も「風景写真は隅々までシャープなものが好まれる」残っているので、気にかける人もおおいですが

人間の認知科学や美術製作理論から言うと、風景写真は隅々までシャープに解像が理想とかいうのは、ただの与太話=偽科学であることも頭に入れながら、

現在も、風景写真は記録であるという立場の人がプロの風景写真家には多いので、隅々までシャープ厨は、特に生半可にしか理解していない価格コムや、便所(5ch)にもいますが、この便所連中は開放絞りで隅々までシャープでないと、風景写真レンズに使えないとか言い出すことがあるので、気を付けましょう

そもそも大部分の風景写真指導では、現在も

回折現象の低下を恐れず、被写界深度を稼ぐことを心がけましょう

と、フルサイズで、F11に止めず、必要なときはF14まで絞ることを躊躇しないように指導しています 実際の風景は立体物なので、F4.F8だと、周りがぼけすぎるからです

F14まで絞ると、5000万画素機は、回折(小絞りボケ)の影響が出て、カメラ内の回折軽減電子補正などがあっても、画質は、どんなレンズでも、「良好レベル」にしかなりません

また2015年あたりから、発売されているレンズでF14まで絞っても周辺が良好にならないレンズは、有名メーカーのものではほぼないです

というわけで、風景写真だから隅々までF2.8で解像するレンズが~ とか考えちゃうのは、ある意味お花畑に住んでいる(あるいは5ちゃんとかの底辺の汲み取り便所)人たちだとも言えます

ネットの、レンズなどのレビューサイトでは、風景撮影には隅々までシャープが望まれるので、F8まで絞らないとこのレンズは解像が不足、とかやってるのは、実はインチキサイトで、風景がらみできちんとしているところは、フルサイズで、F11以上絞ると、回折現象で解像力が落ちるとそこで止める人がいますが、F14まで思い切って絞りましょう

と指導してます(APS-Cなら、F10くらい相当になる)

F14まで絞ればどんなレンズでも、「良い」クラスの解像にまで落ち込みますので、風景撮影に高性能レンズといっても、まともな風景撮影ガイドをやっているところで、推奨されるF14では、ほかの廉価なレンズと大差なかったりしますw


クラス最小・最軽量* 第2世代「G2」大口径望遠ズームレンズ、70-180mm F/2.8 Di III VC VXD G2 (Model A065) ソニー Eマウント用 2023年10月12日より発売

https://www.tamron.com/jp/news/detail/a065_20230914.html


1890年ごろから、1930年ごろまで顕著だった、ソフトフォーカス的な手法が目立ったピクトリアリズム(絵画主義)の時代:写真をぼかす表現技法の歴史 ボケと写真

1890年Peter Henry Emersonが出版した、写真の芸術作品としての限界を認めた「The Death of Naturalistic Photography 自然主義写真の死」写真は芸術かの議論の歴史

1890年Peter Henry Emersonが出版した、写真の芸術作品としての限界を認めた「The Death of Naturalistic Photography 自然主義写真の死」写真は芸術かの議論の歴史

1830年代にダゲレオタイプの発明で、実用的な写真技術が普及し、湿板、乾板をへて、フィルムの登場で一気に庶民にも普及していきますが

当初から、写真技術を絵画と同じような表現の手段として使う試みが、画家たちやその影響を受けた人たちによって行われてきました

ピクトリアリズム絵画主義とも呼ばれ、日本のそれは1890年あたりから1920年代後半までの、ソフトフォーカス的な描写を基調としたアマチュア写真家の流行と、なんか限定された盛り上がりだったようにも時としていわれますが、実際はいろいろな流儀、例えば合成写真なども含めた表現手法で、1830年代末期には、ロマン主義画家たちが、当時の写真家のやってる過剰なシャープネス追及をおかしいと言い出してからずっと続いている流れです

その流れを汲む、自然主義写真を主張したのが、英国のヘンリー・ピーター・エマーソン(Peter Henry Emerson(13 May 1856 – 12 May 1936)でした

彼は目に見える光景と似た風景を再現するために、主題のピントをわずかに外す手法を提唱していましたが ソフトフォーカスレンズがない時代には、普通に使われた手法でした. すなわち、かすかに暈けさせて、自然なエッジにする、ボケを作画に生かす手法で、日本の文化「暈け」から、写真のあいまいさを表現する独自のボケ文化が発展しなどというたわごとをしゃべってる、一部学者たちの、脳は精密検査したほうがよい

彼は、写真を絵画のような芸術の手段として使うことを提唱し、彼の作法をNaturalistic Photography(自然主義写真)と呼びましたが、

1860年代には著名だった英国の旅行写真家Francis Frith(England 1820-1899)などの主張の流れを汲んだものであるといえ、別段彼が特異な存在でもなかった。まあ、エマーソンの時代にはアマチュア向け写真雑誌などが普及しだして、彼も色々書いたので、前の時代の人よりその議論が注目をあびただけです

彼は当時の写真の流れ、シャープで、不自然なエッジが出るような写真をありがたがる風潮は、実際の目に見える光景とは異なるもので、アートとして写真を見る場合には、逆に有害であるという主張を書いていましたが

1890年には、その、写真は芸術創作の手段であるという、持論を引っ込める冊子を出版します

それが

The Death of Naturalistic Photography [1890]自然主義的写真の死 [1890]

by Emerson, P. H. (Peter Henry)

https://archive.org/details/1890Death_naturalistic_photography-BP21-6

https://ia804607.us.archive.org/16/items/1890Death_naturalistic_photography-BP21-6/BP21-6-RPS.pdf

現在は著作権切れなので、このサイトでも公開しますが、

A RENUNCIATION. とある棄却

To all Photographers. すべての写真家たちへ

OVING Brethren that were, I salute you. I owe you one apology, oh! my friends, for in the earnestness of my heart I fartly misled you. You, who stuck by me in storm and stress I shall never forget—if any of you, after this renunciation, seek advice, ask and you shall receive of my best. You, enemies, who will now rub your hands with small-souled glee, rub on, till it all ends in imaginary soft-soap. You, whom I have in mistaken zeal attacked, pray forgive and forget.

And now list. I, saner than ever, renounce and abjure all theories, teachings and views on art written, and first promulgated by me in sundry works, articles, etc., and finally collected in a volume, entitled ‘‘ Naturalistic Photography.” I’cast them upon the dust-heap.そして今リストします。 これまで以上に正気になった私は、最初に、私によって書かれ、さまざまな著作や記事などで広められ、最終的には「自然主義的写真」と題された大冊にまとめられた、芸術に関するすべての理論、教え、見解を放棄し、棄却します。 私はそれらを塵の山の上に投げました。

I am for the present and future neither idealist, realist, naturalist, nor impressionist—photographic impresstonist, indeed ! —as though ALL graphic artists were not impressionists, and as if the photographic process could give aught but transcripts more or less literal. Shall I forsooth explain this burning of books ?

List, you who have ears to hear and eyes to see.

In the fulness of my heart I dreamed a dream.
I thought art might be taught by writing. I was wrong, I confess. I, even I, “the lover of nature,”—everyone is that now—preached that all art that did not conform to ‘‘truth to nature” principle was bad—that was a fatal sermon to many. From this followed again the idea — mistaken, alas ! —that photography pure,—(not impure, on rough papers, touched up by clumsy hands) — was an art surpassing all black and white methods. Eheu! That this was ever believed !

However, I was sincere, enthuSiastic, but mistaken, and I was and am no amateur.
I have by the sweat of my brow learned, under a master, something of this thing they call art. Being no amateur, I have therefore left the Camera Club, the home of the “amateur.” But ye reasonable ones in photography — some of you ave that, true and worthy sons of the goddess Science, who has little to do with the goddess Art—
you will ask, and with right, why this thusness ?

I respect you true workers in science—ye Abneys, Dallmeyers, Hurters, Driffields, Vogels, Jones, Harrisons, Bolas, Waterhouses, Eders, and others. I will tell you, for the vulgar mob of pseudo-scientists have done naught but prove their ignorance and Show signs of the itch … the itch for publicity and venom.

To you, then, who seek an explanation for my conduct, Art—as Whistler said—is not nature—is not necessarily the reproduction or translation of it—much, so very much, that is good art, some of the very best—is not nature at all, nor even based upon it— vide Donatello and Hokusai.そこで、私の行為の説明を求めているあなたへ、ホイッスラーが言ったように、芸術とは、必ずしもその複製や翻訳ではなく、非常にそれが良い芸術であり、最も優れた芸術の一部であるということです。 —自然ではまったくなく、自然に基づいていることさえありません—ドナテロと【日本の浮世絵の葛飾】北斎を参照してください。

The limitations of photography are so great that, though the results may and sometimes do give a certain esthetic pleasure, the medium must always rank the lowest of all arts, dower than any graphic art, for the individuality of the artist is cramped, in short, it can scarcely show itself. Control of the picture is possible to a slzght degree, by varied focussing, by varying the exposure (but this is working in the dark), by development, I doubt (I agree with Hurter and Driffield, after three-and-a-half months careful study of the subject), and lastly, by a certain choice in printing methods.写真の【芸術表現手法としての】限界は非常に大きいので、その【撮影と現像プリント】結果はある種の審美的な喜びを与えることもあるし、時には実際に与えることもあるが、その媒体は常にすべての芸術の中で最下位に位置しなければならず、アーティストの個性は【写真というものの制約下で自由度が低く】窮屈であるため、【作者が自分の意思をより自由に行使できる】グラフィックアートよりも劣っている。 、それはほとんど現れません。 【撮影者が表現のためにできる】写真のコントロールはわずかで、焦点【ピントのこと】を変えたり、露出を変えたり(ただし、これは暗闇の中で機能します)、現像によってある程度可能であるというのは、私は疑うんです(私はハーターとドリフィールドの意見に同意しますよ、3.5か月かけてこのテーマを注意深く研究した後ではね)、そして最後に【焼き付け】プリント方法を、特定の方法でえらぶことですね。

But the all-vital powers of selection and rejection are fatally limited, bound in by fixed and narrow barriers.
No differential analysis can be made, no subduing of parts, save by dodging—no emphasis—save by dodging, and that is not pure photography, impure photography is merely-a confession of limitations. A friend once said to me.しかし、【写真に写りこむものの】選択と【写真に邪魔なものを】拒否【して取り除く】といった、極めて重要な力は、【写真という手段では】致命的に制限されており、【写真での撮影者の表現の自由度は】固定された狭い障壁に縛られています。 差異の分析はできず、部分を抑制することもできず、避けて保存することはできず、強調することもできず、避けて保存することはできません【要するにモンタージュや合成写真を否定している】。【人為的に不要なものを消したり、付け足したりするような、工夫、もちろん合成技法で作られた写真は論外、】それは純粋な写真ではなく、不純な写真で、単なる【写真表現の】限界の告白にすぎません。 かつて友人が私にこう言いました。

I feel like taking nearly every photograph and analyzing it.” Compare a pen and ink drawing by Rico or Vierge, in Pennell’s book. I thought once (Hurter and Driffield have taught me differently) that true values
could be obtained and that values could be altered at will by development. They cannot; therefore, to talk of getting the values in any subject whatever as you wish and of getting them true to nature, is to talk nonsense.

It is impossible, in most subjects, to alter your values as you wish, and to talk of such things now is mere emptiness and puffed-up humbug.

Some amateurs following Colonel Noverre’s REVIVAL of rough printing-papers LasT yEAR (1889), have thought that salvation lay in rough surfaces. Colonel Noverre’s dustheap was ransacked, and we have heard of a “new departure ”—a newer “school,” and all the bleat of the overweeningly vain “amateur.”

If there can be no scientific basis for an art, as some have asserted, Meissonier can claim to be-as artistic as Monet, and Monet as Meissonier.

The sharp photographer can assert his artistic rights alongside of the veriest “‘blottist.” So all opinions and writings upon art are as the crackling of thorns beneath the pot. In short, I throw my lot in with those who say that photography is a very limited art. I regret deeply that I have to come to this conclusion. Photography is first of all the hand-maiden of art and science. It has and will register new facts of light, form and texture. Pure photography is a scientific method of drawing, and scientists should work on until a true and literal scientific transcript of nature can be made—this by ortho-chromatics, etc.鋭い写真家は、最も優れた「ブロッティスト[汚すとかシミを作るという単語からの派生だが、落書き屋のような意味か?]」と並んで、その芸術的権利を主張できます。 そう、芸術に関するすべての意見や文章は、鍋の下でパチパチと音を立てるいばらのようなものです【まあいろんな意見があるという意味】。 つまり、私は写真は非常に限定された芸術であると主張する人々にロットを投げ込みます【=賛成です】。 このような結論に至らざるを得なくなったことを、私は大変遺憾に思います。 写真はまず第一に、芸術と科学の侍女です。 それは光、形、質感の新しい事実を記録し、そして記録するのです。 純粋な写真は科学的な描画方法であり、科学者は自然の真の文字通りの科学的転写が作成できるようになるまで取り組む必要があります。これはオルソクロマティックなどによって行われます。

It will interest some to hear what I think of some points that have been vexed questions in a war I have, I regret to say, stirred up. Composition, as understood by Burnet and others, I hold to be futility itself, though I can appreciate the attempts to meet the difficulties in this matter. The eternal principles of art I have heard so much of are mere catchwords.

Sharpness v. Diffusion.— lf the work is for scientific ; purposes, work sharply ; if for amusement, please yourself; if for business, do what will pay.シャープネス vs. 拡散[ぼかし技法] – 撮影が科学的なものである場合。 目的に応じて、シャープになるよう作業します。 娯楽のためなら、どうぞご自由に。 ビジネスの場合は、お金に見合うことをしてください【頼んだ人が好いように仕上げる】。

I have, I regret it deeply, compared photographs to great works of art, and photographers to great artists.
It was rash and thoughtless, and my punishment is in having to acknowledge this now. – Think of the marvellous dexterity of the man who with pencil, pen and ink, or paint and brush, produces a masterpiece, the drawing equal to that of the lens, the tones in harmony, the colour delicate and marvellously beautiful. Read Rood’s Chromatics for a hint of the manifold difficulties surrounding this subject. Then think of the amateur photographer who, if clever, can in a few weeks turn out good technical work.とても後悔していますが、私は写真を偉大な芸術作品に、写真家を偉大な芸術家に例えてきました。 それは軽率で軽率な行為であり、今このことを認めなければならないことが私の罰です。 – 鉛筆、ペンとインク、あるいは絵の具と筆を使って、レンズと同等の描画、調和した色調、繊細で驚くほど美しい傑作を生み出す男の驚くべき器用さを考えてください。 この主題を取り巻くさまざまな困難については、ルードの『クロマティックス』を読んでください。 次に、賢ければ数週間で優れた技術的な作品を仕上げることができるアマチュア写真家のことを考えてみましょう。

It may be asked then what theories on art I have? I answer at present wove. What artists I admire? I answer, all good artists and all good art. To what school do I now belong? None. What do I thick of writings upon art and art criticisms? Mistakes.

A final word. Suggestions have been made that I get some of my ideas from a book, called “ Naturalistic Painting.” I have a letter in my possession from an artist, wherein is stated clearly and exactly that * Mr. Bate had read a paper of mine on Naturalistic Photography before his first article appeared in the “ Artist.” At the Society of Arts, the other day, a paper was read by Mr. Davison—an amateur without training, and with superficial knowledge—in which my o/d ideas were freely and impudently handed about and no credit given me.
It was whispered about by my enemies that this person had originated some of the ideas of Naturalistic Photography. To enlighten the public 1 append a quotation from his letter to me on this point. There are plenty more confessions of “his lack of knowledge ;” that his articles were “drivel,” it is his own word, and other confessions of incompetence and proofs of plagiarism, if necessary. He is now welcome to my cast-off clothes if he likes—he or anybody else. It is with deep regret. I do this thing, and it is only as a duty to myself. I justify myself by stating that I wrote privately to Mr. Davison, expostulating with him for freely appropriating my ideas and telling him that if he did not give me full credit at the Society of Arts I should publish a history of the matter.
He never replied. He can publish my letter in full if he likes. This was Mr. Davison’s reply to a letter I wrote to him and others asking them if they minded me thanking them in public for their support. His reply is dated from the Camera Club, 16th December, 1889, ONLY A YEAR AGO. It is, “I AM GLAD AND PROUD TO BE IDENTIFIED IN ANY WAY WITH NATURALISTIC PHOTOGRAPHY, BECAUSE I BELIEVE IN’ WHAT I UNDERSTAND IT MORE AND MORE CLEARLY TO BE, BUT I DOUBT VERY MUCH WHETHER ANYTHING I HAVE DONE DESERVES RECOGNITION.”

I sent a copy of Naturalistic Photography some time ago for review, to the Editor of the journal of the Society of Arts, and it got a bad notice. All the ideas offered the other night were thus offered to the Society previously.
Lastly, a special speech, read from a paper by a friend of mine, especially pointing out how I had originated these ideas, was not reported as it was read, the printed report giving altogether a different impression from what the speaker said. Those who heard the original can refer to the speech, as reported in the journal of the Society of Arts—not Artists, as Mr. J. Pennell has aptly described it. This sort of treatment, which is nothing new to me, may excuse some of my bitterly written invectives.

Finally. Some of my friends to whom I have recently privately communicated my renunciation, have wished to know how it came about. Misgivings seized me after conversations with a great artist, after the Paris Exhi- bition; these were strengthened by the appearance of certain recent researches in psychology, and Hurter and Driffield’s papers; and finally the exhibition of Hokusai’s work and a study of the National Gallery pictures after three-and-a-half months’ solitary study of Nature in my house-boat did for me. ; P.S.— Will every Secretary of every Photographic Society take four wafers and a sheet of black paper and hide for ever the words ‘To the Student” in Pictures of East Anghan Life.

Having taken some earnest photographers a little way into the Art-world, I feel it my duty to say that, when I have fully reconsidered the limited art possibilities of photography and the general philosophy of art, I will write another book; in the meantime, let students avoid all spurious imitations.何人かの熱心な写真家たちをアートの世界に少しだけ導いてきた私は、写真の限られた芸術の可能性と芸術の一般的な哲学を十分に再考した時に、別の本を書くつもりだと、いうのが、私の義務だと感じています。 それまでの間、生徒には偽りの模倣をすべて避けてもらいます。


*Veriest = Upmost

と、彼は、いろいろな撮影技術や現像プリントの技術をもってしても、写真に撮影者が自分の意図をつけ加える余地は、絵画などほかの制作方法に比べて非常に限られていて、その意味では創作芸術としての写真は、最下位に置くべきだと、

Blottistの正確な意味【特に19世紀の】はやや不明なので、断言はしませんが、写真は落書きクラスの芸術性を主張できるのは間違いないとまでこけ下す。写真は科学的な記録であり、製作者の意思を反映するのが目的の芸術の要素は非常に限られていると 

それまでの彼の自分で書いた、自然主義写真の撮り方という本で書いたことを否定してしまいます

彼が日本の葛飾北斎を見て、自然に忠実であることが芸術ではない見本であり、忠実が基本となる写真では、芸術性が発揮される余地が少ないので、写真の芸術性は低いと論じたわけ

『冨嶽三十六景 駿州江尻』葛飾北斎
Hokusai 葛飾北斎『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」

ただ、これ19世紀末期の、また写真の表現手法が非常に限られていた時代の話で、

さらに彼は、

Pure photography is a scientific method of drawing, and scientists should work on until a true and literal scientific transcript of nature can be made(純粋な写真は、科学的な【手法による】描画方法であり、科学者は、自然の、文字通りの科学的記録が作成されるまで取り組む必要があります)

と、写真は科学的手法で「記録」であるのが本来で、いくつもの写真を合成して、絵画のような写真を作ることを欺瞞であるとは、はっきりは書いていませんが、そういう手法が使えない前提で、写真の表現としての限界を告白するまがい物の写真と、ピクトリアリズム=絵画主義的な要素も一部入れながら、写真は忠実性=記録性が基本であり、合成は欺瞞であると、写真における合成は邪道として自ら道をふさいでしまいます

エマーソンは、下のような同時代の合成写真家(Composite Photographer)には否定的でした、

“Fading Away”, by Henry Peach Robinsonヘンリー・ピーチ・ロビンソン, 1858 著作権切れ
The Two Ways of Life 人生の二つの道 (1858) by Oscar Gustave Rejlander

まあ、エマーソン以前から、創作の手段しての合成写真を否定する、意味不明な流れは写真のプロの間では根強く(ほかのジャンルの美術家たちなどは支援したので、合成写真で19世紀著名に活動していた人は特に珍しくなかった)。1860年代には特に著名だった、旅行写真家Francis Frith(England 1820-1899)は、Francis Frith, “The Art of Photography”, The Art Journal 5 (1859)という記事で、

We now come to the disadvantages of this attribute: for it happens, by a singular fatality, that upon it hangs the chief reproach to photographic reproductions as works of Art. The fact is, that it is too truthful. It insists upon giving us ‘the truth, the whole truth, and nothing but the truth.” Now, we want, in Art, the first and last of these
conditions, but we can dispense very well with the middle term. Doubtless, it is truly he province of Art to improve upon nature, by control and arrangement, as it is to copy her closely in all that we do imitate; and, therefore, we say boldly, that by the non-possession of these privileges, photography pays a heavy compensation to Art, and must for ever remain under an immense disadvantage in this respect.

と書き、

写真は、余計なところまで細かく記録してしまい、さらに、絵画のように、要素を入れ替えたり配置を変えることは、写真では不可能としてしまうんですよね、と、1860年代当時の旅行写真の大御所w

エマーソンが1890年に書いたのと一緒でw 

記録の手段として写真を考えるなら、要素を切り抜いて配置するような、合成写真は確かにアウト

でも、写真を絵画などと同じように、表現の手段として考えるなら、その場合は別に合成もありなのですが、どういうわけだか、写真家みずから、創作手段の可能性に蓋をして、写真は作者の創造性が発揮しにくいジャンルで、芸術を追求するのに大きく困難が伴う 

とか書いちゃうのが、21世紀の今も謎

さて、

エマーソン自体、芸術性を高く評価される写真が撮れることは、もちろんあることは否定せず、ただ、ものすごく自由度が低いので、むつかしい、しないほうがいいという論調なわけです

この19世紀の技術的限界と、エマーソンが信じる写真の在り方の定義の話を、

21世紀の現在も額面通りに受け取る必要はないです 19世紀の写真技術では、写真家の意思や意図を反映しにくかったので、写真は19世紀末期では芸術手法としては最下位のものである

という考えに至った、というのであれば、あるいはそうだったとも言えますが


写真は記録手段に徹するべきであるという、流れと、創作の道具の一つであるという、

双方ともごく当たり前の立場からくる議論は、21世紀も、炎上商法として残っていますが

写真=記録派も、写真ちゅうのは記録に決まってるだろ

というある意味「非」科学的なことを一般基礎常識のような態度で、世間にデーンと構えているので

風景写真の過剰レタッチ議論なんかが起きたりするんです

風景写真コンテストの開催者が、

開催者としてはありのままの自然を記録するという側面を重視したいので、このコンテストでは過剰なレタッチや合成は排除する方針を取ります

とはっきり言えばいいのに、

ただ単に、過剰なレタッチについては認めない方針ですとか、理由を説明しない主催者が多いし

レタッチを生かしたい表現者も、新しく「創作写真」とか言って、自然を題材に、レタッチなど制限なく新しい表現をする写真ジャンルですとかはっきり言って、合成やレタッチ写真を評価する場を設ければいいのですよ

まあ、これは俺のほうが正しい自然風景写真やってるんだとかいういがみ合いから、譲らずに延々と議論だけが金儲けのために行われてますがw


合成モンタージュ写真と写真のピクトリアリズム絵画主義

風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】

日本語のBokeh(ボケ)が、写真のピントの合っていない領域の描写を示す言葉となった経緯【ボケはあいまいさを尊ぶ日本の文化が写真に反映されたというバカ学者・ライターたちを検証】フランス語のFlouと日本語起源のBokeh

ウィリアム・クラインWilliam Klein、1950年代、写真は絵画ではできない表現手法ができるのが面白かったと、19世紀末期の写真は芸術たりえないとしたエマーソンとは逆の見解を示した