写真の歴史ヘリオグラフィーから始まった現存最古の風景写真:写真が大きく普及するのは、ダゲレオタイプ(銀板写真法)の発明から
1950年代、写真のボケ、アレ、、ブレを前面に押し出した写真表現で有名となった、アメリカのウィリアム・クラインWilliam Kleinの話を追跡するうえで、写真はジャスピンで、ブレがなく、隅々までシャープでなけばならないといった、妙な「神話」に当時の写真界が取りつかれていたのに挑戦した彼クラインは、本当に先駆者だったかを確認する作業がいります
写真家ウィリアム・クラインについての、日本の三文学者の駄文を見ていると、クライン以前の写真家はボケなどの表現をご法度にしていた、ように見える読書感想文を書いてるのがいますが
こういうのを見ていると、おかしな学者だなあということに気が付くのです
というのも、ボケの技術やブレの表現は、写真が始まる前から、絵画の世界では常識の技法として広く認知されていて、初期の写真家は絵画もかじっている人がいるのが珍しくなく、当然の技法であったのですが、なぜかそういう人たちも、写真の話になると、ピントは隅々まであって鮮明なピントがあるのが要求されるなどと、言い出していた謎があります
実際には、絵画の手法であるボケや、ブレ、ピンボケを表現に使おうとした人は、写真がダゲレオタイプ(銀板写真法)の開発で普及したあとからは、珍しくなかった ということが判明してきています まあ、欧州大陸ではピンボケ、ボケ、ブレ厳禁派の主張が強く、ブレ、ボケを生かす表現活動は、英国のほうが優勢だったとかはありますが、ブレやボケを生かす撮影に取り組んでいた写真家は写真技術の普及開始とともに多数いたし作品も出していましたが、保守派が存在を邪道のように無視していただけ
まあ、現在この辺り調査中なのですが、その経過で写真の発明の話も少しかじっているため、世界最古の風景写真などの話をしましょう
カメラの原理自体は16世紀ごろには作られていましたが、その画像をどうやって固定定着するかの技術は、不明のままでした
1798年、石版印刷(リトグラフ)という、石灰石の石板に、リトクレヨン(脂肪分の多いクレヨン)などで描いた原画に、アラビアガムと硝酸を混合した弱酸性の溶液をかけると、彫刻せずとも版画の原版になるという技術が偶然から発見され普及しましたが、
ほかの方法で、似たようなことができないかと、
フランスの発明家
Joseph Nicéphore Niépce 、1765年3月7日 – 1833年7月5日が挑戦し、
19世紀に入ってまず、アスファルトの一種(bitume de Judée)は、光線に当たる部分は、固まり、光線の当たらない部分は、固まらず、油(ラベンダー)で洗うと流れ落ちる原理で、
このアスファルトを塗った板(スズの金属板)に、
ニスなどで半透明にした絵画を、太陽光のある場所にかぶせて置くことで、複写を行うことができる技術が開発され、L’héliographie ヘリオグラフィー=太陽で描くと呼ばれ
写真の原型が誕生します (L’héliographie ヘリオグラフィーの名称は、1853年ごろまで使われた)
時期は1822年ともいわれます
さて、その後彼は、絵画や版画の複写ではなく、瀝青(れきせい)を、アスファルトの代わりに用いる技術で、ピンホールカメラでの写真撮影に挑戦し、1824年ごろには成功したとされます
現在残っている原版
影の部分が写真の両側にあることから、太陽が左から右端にまで移動する間、露出をしていたと思われ、露光時間は8時間、あるいは20時間という人もいる
その露光時間の長さから、写真はまだ実用段階ではなく
彼は、ダゲレオタイプ(銀板写真法)という、銅の板に銀をメッキし、ヨウ素の蒸気を当ててヨウ化銀とし、撮影をした後に、水銀蒸気で「現像」する という、撮影時間が少なくなるタイプの写真の開発に取り組んでいましたが、
途中で死んでしまい、Joseph Nicéphore Niépceと、共同開発に加わったルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787年11月18日 – 1851年7月10日が、撮影時間を数分から数秒にまで減らす改良をし、実用的な写真技術として普及することになりました。(イギリスでほぼ同時期にタルボタイプという方式が発明されましたが、鮮明さで全く歯が立たなかったので、ダゲールの方式が広まった)
さて、こうして登場普及した写真技術ですが、
初期の写真家たちは、絵画なども習っていた人も多く、ボケの表現方法なども知っていた人が多いのに、写真ではボケ厳禁などという立場をとる人が多くなり、
現在も、風景写真は隅々までシャープに解像するのが求められる
という、よく考えたら、人間の認知科学や、美術表現理論に反することを平気で広めて歩く、プロ写真家と名乗る人たちがいますが、
風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】
これって、19世紀からの、写真に関しては、ぶれもボケもあってはならないと、変な主張を始めた人たちの歴史の遺物が21世紀にも残っている
からとも言えますね
カメラの歴史をみてみよう
フィルムのなかった時代
https://global.canon/ja/technology/kids/mystery/m_03_01.html
アメリカではダゲレオタイプとほぼ同時に、紙を使うタルボタイプが登場しましたが、シャープさで圧倒的に落ちるため普及しませんでした
タルボタイプ(カロタイプ)の発展しなかったアメリカ
第三章 ③
2010年11月10日 玄光社 Shuffle 安友志乃
https://shuffle.genkosha.com/special/studies/people/7655.html
「ダゲールとタルボットがカメラオブスクラの像の定着に成功したことが新聞によって伝えられたのは1839年3月… タルボタイプに複製が可能である、という大きな利点があったにも関わらず、人々を魅了せず、この時点で産業を押し上げる要因ともならなかったのは、タルボタイプによって再現された像があまりにも不鮮明であったと同時に、プロセスに非常に時間がかかったためです。…わずかなプロたちでさえ不鮮明さに根を上げ、しまいにはダゲレオタイプに戻ってゆきました。]安友志乃記事引用
と、ダゲレオタイプの鮮明な写真に、歯が立たなかった実情があったとされています
1851年のイギリスでのガラス湿板(しつばん)の誕生により、欧州では、ダゲレオタイプの写真は急速に衰退しますが、アメリカではダゲレオタイプがしばらく根強く人気でした
人々の歩み
世界を牽引するアメリカン・ダゲレオタイプ
第二章 1846−1855 ⑤
2010年07月28日 玄光社 Shuffle 安友志乃
https://shuffle.genkosha.com/special/studies/people/7537.html
の記事にもあるように、欧州では手作業でタゲレオタイプの感光材を作っていたのに、アメリカでは大量生産技術が進歩し、非常に高精度のタゲレオタイプの感光銅板を作っていたので、価格も安く、品質も欧州のものより優れていたので、ガラス湿板に置き換える必要性がしばらくなかったからです
感性の赴くままに写真を撮影することも、あるいは正解の場合もある:ウィリアム・クラインWilliam Klein ブレ・ボケ・アレを写真表現として確立したアメリカの写真家
写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち