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カテゴリー: 第二次世界大戦

ロシア連邦大統領プーチン、第二次世界大戦終結記念日を、日本軍国主義勝利記念日に変更する法律に署名

ロシア国防省

Минобороны России

https://t.me/mod_russia/27818

День воинской славы 3 сентября законодательно объявлен Днём Победы над милитаристской Японией и окончания Второй мировой войны (1945 год).9月3日の「戦勝記念日」は、軍国主義日本に対する戦勝記念日および第二次世界大戦終結記念日(1945年)として法的に宣言されている。

▫️ Президент России Владимир Путин подписал Федеральный закон «О внесении изменения в статью 78 Уголовно-исполнительного кодекса Российской Федерации». Федеральным законом предусматривается изменение наименования дня воинской славы России «3 сентября – День окончания Второй мировой войны (1945 год)» на «3 сентября – День Победы над милитаристской Японией и окончания Второй мировой войны (1945 год)».▫️ ウラジーミル・プーチン大統領は、連邦法「ロシア連邦刑事行政法第78条の改正について」に署名した。連邦法は、ロシアの軍事的栄光の日「9月3日-第二次世界大戦終結(1945年)の日」の名称を「9月3日-軍国主義日本に対する勝利と第二次世界大戦終結(1945年)の日」に変更することを規定している。

と、日本との平和条約が未だに締結されていない状態が悪化する事態

ロシアとの北方領土問題【ウクライナ・ロシア戦争】とポツダム宣言

日本がロシア制裁措置を取ったため、

ロシア側は、第二次世界大戦を清算するための平和条約の交渉を事実上破棄しました

てなわけで、北方四島が日本に帰ることはもうない

日本が第二次世界大戦で、無条件降伏(またこれ屁理屈いって無条件降伏ではないという言葉遊びをしてる人もいますが)の条件として飲んだ

ポツダム宣言(1945年7月16日)ソ連は会議に参加し、条文の変更交渉などやっていましたが、日本に宣戦布告はしていない時点であったので、署名はしなかった(ヤルタ会談(1945年2月)で、ソ連は、連合国の要請=日本領土の一部分譲渡の条件を出すなどの提案に基づき、ドイツが敗北して、三か月以内に日本攻撃に参加すると、スターリンは約束。連合国側は、ソビエト連邦の日本との不可侵条約(The Neutrality Pactなので中立条約だが)破棄を、国際法違反とはしないと、このとき「事実上の」言質を与えていた。ただし、1945年4月に、日本がソ連に敵対するドイツを支援し、ソ連の援助をする米英を攻撃したのは背信であると、中立条約の延長はしないと宣言したときも、あと12ヶ月不戦条約は有効であると、ソビエト側が日本帝国政府に伝えており、12ヶ月たたないうちに宣戦布告したのは、だましうちという話が残ることになる 1945年7月24日には、ソビエト連邦は日本大使館の職員と家族らに、日本出国命令を出していたので、日本軍側はいずれソ連軍攻撃が起こることは多くの司令部が予想はしていたが、シベリア鉄道を通じての大移動が見られないことから、本格攻撃はもっと後と予測していた(ソビエトは、迂回ルートをつかい、シベリア鉄道以外の輸送手段を通じて欧州軍を移動させ、日本側の裏をかいた))

ポツダム宣言の条項を見ましょう

Potsdam Declaration

https://en.wikisource.org/wiki/Potsdam_Declaration

https://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c06.html

8) The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.8) カイロ宣言の条項は履行され、日本の主権は本州、北海道、九州、四国の島々および我々が定める小島嶼に限定されるものとする。

日本周辺の小さい島の領土権については、我々=連合国側にその決定権があるとしています

要は、ソ連が占領した北方四島についても、連合国側が日本領であるか、連合国側が領土とするかを決められるとしています。その後、サンフランシスコ平和条約が成立した後は、平和条約に参加せず、成立していないソ連(今のロシア)と日本の話し合いに任されているままなのですが、

ソ連と日本は、独自の平和条約ができたときには、ソ連は、歯舞と色丹島は日本に返還するとの共同声明を出したものの

日本は、国後、択捉も、ついでに返せ、そこは千島列島とは別の南千島列島(少なくともそんな概念はだいぶあとから、日本の都合で作られたもので、南千島列島なるものは本来は存在していない)で、日本の固有領土だと騒いでいるんですが、ポツダム宣言を見れば、国後、択捉は日本固有の領土かを決める事ができるのは、ロシアのさじ加減でしかないのがわかります

(10) We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.(10) 我々は、日本人が人種として奴隷にされたり、国家として破壊されることを意図するものではないが、我々の捕虜に残虐行為を行った者を含むすべての戦争犯罪者に対して、厳しい正義が下されるものとする。 日本政府は、日本国民の民主主義的傾向の復活と強化に対するあらゆる障害を除去するものとする。 言論、宗教、思想の自由と基本的人権の尊重は確立されなければならない。

(12) The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.(12) 連合国の占領軍は、これらの目的が達成され、日本国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を有する責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するものとする。

13) We call upon the Government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all the Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.13) 我々は日本政府に対し、今すぐ全日本軍の無条件降伏を宣言し、そのような行動に対する彼らの誠実さの適切かつ十分な保証を提供することを求める。 日本に対する代替案は、【我々による】迅速かつ完全な破壊である。

と、ポツダム宣言第13条には、連合国が無条件降伏を要求したのは、日本軍のみで、日本政府には無条件降伏が課されていないのだから、マッカーサーが書いた憲法なんかを押し付けたのは国際法違反とか喚く人もいますが、

連合国の監視下で、日本政府は連合国の価値観での民主主義を、日本国内に確立する義務が生じ、

まずは国民に自由選挙を保証した議員によって、民主改革をしなければならなくなり、

まず、ポツダム宣言を受諾した日本は、衆議院の投票や立候補を女性にも広げた選挙を1945年12月に行いますが、

連合国は民主主義の障害になるもののすべてを日本政府は排除しなければならないとポツダム宣言11条は定め、それがないならポツダム宣言12条で、日本は占領したままだと述べているわけです

まあ、衆議院がようやく平等選挙になった状態で、連合国は日本憲法の改正を議会に期待しますが、

日本は天皇統治の国であるという原則を維持したい日本の保守派の動向を見て、特にソビエト連邦は、天皇制廃止を主張していたがっていたため(マッカーサーは、日本側に、ソビエト連邦が納得する憲法ができないと、民主化要求は満たされたとはいえない状態になり、日本は占領されたままになるのだがいいのか?と話しています「日誌[芦田均日記 憲法改正関連部分]」国会図書館 https://www.ndl.go.jp/constitution/library/06/002_41/002_41tx.html#t210219)、

十月十六日私ハ率直に今日の事態に於てハインテリ層ハ明かに憲法改正を必至と考へて居るし、六三条の修正案の発議権を議会に与へないことはポツダム宣言と相容れないとも述べた。…憲法論議第一日 二月十九日…自分は此時発言して、若しアメリカ案が発表せられたならば我国の新聞ハ必ずや之に追随して賛成するであらう。其際に現内閣が責任はとれぬと称して辞職すれバ、米国案を承諾する連中が出てくるに違いない、そして来るべき総選挙の結果にも大影響を与へることハ頗る懸念すべきであると。
松本先生ハ声に応じて賛同し農林大臣も卑見を支持して先方の案ハ形に見る程大懸隔あるものとハ思ハれないから正面から反対する必要ハないとの意見であつた。…憲法論議第二日 二月廿二日…“MacArthurは先づ例の如く演説を初めた。『吾輩は日本の為めに誠心誠意図つて居る。天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じてゐる。幣原男が国の為めに誠意を以て働いて居られることも了解してゐる。然しFar Eastern CommissionのWashingtonに於ける討議の内容は実に不愉快なものであつたとの報告に接してゐる。それハ総理の想像に及バない程日本にとつて不快なものだと聞いてゐる。自分も果していつ迄此の地位に留りうるや疑ハしいが、其後がどうなるかを考へる時自分は不安に堪へぬ。
ソ聯と濠洲とは日本の復讐戦を疑惧して極力之を防止せんことを努めてゐる。…松本案の如くであれば世界は必ず日本の真意を疑つて其影響ハ頗る寒心すべきものがある。かくては日本の安泰を期すること不可能と思ふ。此際は先づ諸外国のReactionに留意すべきであつて、米図案を認容しなければ日本は絶好のchanceを失ふであらう。”(上記芦田均日記)

1946年2月には、マッカーサー元帥は、アメリカ側から憲法雛形を提案するように、以下のようにメモを作り

https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/072/072_002r.html

日本の天皇は元首であっても実権を持たないような条文の憲法案を作るように命じています

*マッカーサー憲法から日本国憲法で削除された代表的なもの

マッカーサー原案では、

国民の意思により天皇制を廃止する権利 → 削除

国籍がどこであっても、外国人であっても日本の法の保護を受けるとした → 削除

最高裁判所の違憲判決を国会で再審し、国会の議決によって最高裁判所の違憲判決を取り消せる → 削除 

まあ、これは憲法じゃないですが、

日本で民主主義政党が力をつけてきたため、大日本帝国の元勲山縣は、それまでは政府が、選んでいた高級官僚を、試験合格エリートでしかなれないように、制度を改め、

試験エリート官僚を民主主義に対する対抗勢力として形成しました。

アメリカなどは、この試験制度による官僚登用を改めるように指導しますが、

日本政府は、何らかの形で帝国政府の官僚体制や支配体制を残したかったので、

連合国から強力に指導されていた、検察庁を司法から分離するというはなしも、日本は有耶無耶に残したままです。検察が日本の裁判所や法務省の中核を占める大日本帝国の体制を残したく、法務省の中核人事を帝国時代と同じように検察が牛耳る、昇進は採用試験の種類と成績によるという一文をこの前まで国家公務員法に残し、司法試験を通った検察官が、上級監督省の法務省の幹部に出向でなり、重要ポストの大部分を占める状態を作っていました。内閣人事局ができた今でも、司法試験は国家公務員試験より格が高いと、検察庁の幹部が法務省の幹部になる、大日本帝国の遺物状態*同じやり方をロシアのFSB諜報治安庁が行い、ロシア連邦法務省にはFSBの出向人員が送り込まれ、法務省の監督権限を事実上無くしたまま 


その前に出された連合国側の指針としてカイロ宣言

ただし、英国チャーチル、米国ルーズベルト、中国蒋介石にのみよる声明で、ロシアの前身国家ソビエト連邦のスターリンはいない声明文

https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46/002_46tx.html

“The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.「三大同盟国は、日本の侵略を抑制し懲罰するためにこの戦争を戦っている。三大同盟は、自分たちの利益を切望しておらず、領土拡大など考えていない。日本が占領した太平洋のすべての島々を剥奪することが彼らの目的である。」 1914年に第一次世界大戦が始まって以来、日本は占領または占領しており、満州、台湾、澎湖諸島など日本が中国人から盗んだすべての領土は中華民国に返還されるものとする。 前述の三大国は、朝鮮人民の奴隷化を念頭に置き、やがて朝鮮が自由となり、独立することを、決めている。

と、カイロ宣言では、1914年以降、日本が獲得した海外領土、及び1910年に日本に併合した朝鮮を、再び独立させる意図を表記しています

このカイロ宣言から言えば、それ以前から日本領であった、南樺太、千島列島はカイロ宣言にある日本から剥奪スべき領土に入っていないという理屈を言う人もいますが、

ソビエト連邦が参加していない場での宣言で、ソ連が参加(承認)した上での「ポツダム宣言」には、

8) The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.8) カイロ宣言の条項は履行され、日本の主権は本州、北海道、九州、四国の島々および我々が定める小島嶼に限定されるものとする。

と、カイロ宣言を基本とし、本州北海道九州四国と、連合軍が定める周辺の小さな島に、日本の領土は制限されるとされ、

朝鮮及び、1914年以降に日本が獲得した海外領土や勢力圏の排除の他、日本本土周辺の小さな島について、日本の領土として継続するかについては、アメリカソ連中国英国の連合国が決めることであると、新たに但し書きが付け加わっているわけです


第二次世界大戦末期のソビエト連邦の対日宣戦布告

イェール大学

Soviet Declaration of War on Japan

https://avalon.law.yale.edu/wwii/s4.asp

London, Aug., 8, 1945 – Foreign Commissar Molotoff’s (sic) announcement of the declaration of war, as broadcast by Moscow, follows:

On Aug. 8, People’s Commissar for Foreign Affairs of the U.S.S.R. Molotoff received the Japanese Ambassador, Mr. Sato, and gave him, on behalf of the Soviet Government, the following for transmission to the Japanese Government:

“After the defeat and capitulation of Hitlerite Germany, Japan became the only great power that still stood for the continuation of the war.

“The demand of the three powers, the United States, Great Britain and China, on July 26 for the unconditional surrender of the Japanese armed forces was rejected by Japan, and thus the proposal of the Japanese Government to the Soviet Union on mediation in the war in the Far East loses all basis.

“Taking into consideration the refusal of Japan to capitulate, the Allies submitted to the Soviet Government a proposal to join the war against Japanese aggression and thus shorten the duration of the war, reduce the number of victims and facilitate the speedy restoration of universal peace.

“Loyal to its Allied duty, the Soviet Government has accepted the proposals of the Allies and has joined in the declaration of the Allied powers of July 26.

“The Soviet Government considers that this policy is the only means able to bring peace nearer, free the people from further sacrifice and suffering and give the Japanese people the possibility of avoiding the dangers and destruction suffered by Germany after her refusal to capitulate unconditionally.

“In view of the above, the Soviet Government declares that from tomorrow, that is from Aug. 9, the Soviet Government will consider itself to be at war with Japan.”

ロンドン、1945年8月8日-モスクワから放送されたモロトフ外務委員(中略)の宣戦布告は次の通りである:

8月8日、ソビエト連邦のモロトフ外務人民委員は日本大使の佐藤氏を迎え、ソビエト政府を代表して、日本政府に伝えるべき以下の内容を伝えた:

「ヒトラー派ドイツの敗北と降伏の後、日本は依然として戦争の継続を主張する唯一の大国となった。

「7月26日の米英中の三国による日本軍の無条件降伏の要求は日本によって拒否され、したがって日本政府がソ連に提案した極東戦争の調停に関する提案は、すべての根拠を失った。

「日本の降伏拒否を考慮し、連合国はソ連政府に対し、日本の侵略に対する戦争に参加することで、戦争の期間を短縮し、犠牲者の数を減らし、普遍的平和の速やかな回復を促進する提案を提出した。

「連合国の義務に忠実なソビエト政府は、連合国の提案を受け入れ、7月26日の連合国の宣言に参加した。

「ソ連政府は、この政策が平和を近づけ、国民をさらなる犠牲と苦しみから解放し、日本国民に、無条件降伏を拒否したドイツが受けた危険と破壊を回避する可能性を与えることができる唯一の手段であると考える。

“以上のことから、ソ連政府は明日から、すなわち8月9日から、自らを日本と戦争状態にあるとみなすことを宣言する。”


丸山議員と北方領土問題 国後島と択捉島は将来的に日本が放棄する土地と、日本政府はそもそも認めていた歴史 安倍政権が「北方領土問題」を話題にしなくなった本当の理由 よく言われる、日ソ中立条約=不可侵条約も、そもそもソ連に大軍団を送り込んでいたドイツを助けて、ソ連を援助する米国英国に攻撃を続け、条約違反を続けていたのは日本だったという落ちだよね

第二次世界大戦=大祖国戦争で手足を失い障害が残ったソビエト兵の帰還兵たちは、ソビエトにとってみっともない存在と、ソビエト連邦独裁者スターリンは、僻地に強制移住させた

ウクライナ国防省の国防ニュースサイトАрміяInform,

Щоб очі мої не бачили цих калік… — сталін про фронтовиківこの【戦争による負傷で体が】不自由な人たちを私が見るのはよろしくない……」【旧ソビエト連邦独裁者】スターリン、最前線の兵士について語る

Публікації

Прочитаєте за: 6 хв. 9 Травня 2023, 14:49

Сергій Зятьєв

АрміяInform,

 травня за радянщини, та й досі в сучасній росії, святкувався із величезною помпою, під салюти й бравурні промови із тисяч трибун. Але реальне відношення з боку кремлівської влади до тих, хто здобував цю перемогу, яскраво демонструє хоч би таке. У післявоєнні роки за наказом сталіна з москви, Києва та інших великих міст колишнього срср були вислані тисячі фронтовиків-інвалідів, які, на думку кремлівського тирана, «своїм виглядом ганьбили радянську владу»….ソビエト時代のメーデー、そして現代のロシアのメーデーでも、打ち上げ花火や、何千ものスタンドからの勇ましい演説で、盛大に祝われたものである。しかし、この【第二次世界大戦のドイツ第三帝国に対する】勝利を収めた人々【兵士として参加した】に対するクレムリン当局の実際の態度は、少なくとも明確に示されている。戦後、スターリンの命令で、モスクワやキエフ【キーウ】など旧ソ連の主要都市から、クレムリンの暴君【スターリン】の意見で「その姿でソ連政府を貶めた」と、何千人もの障害を持つ【ソビエト赤軍】退役軍人が追放された…。

«З орденами і в недоносках…»「命令を受けて、ひどい服装で…」

… путінська росія продовжує жити міфами, створеними за часів радянського союзу. Одним з найбільш розповсюджених і розтиражованих є міф про щасливе і заможне життя фронтовиків-інвалідів Другої світової війни. І це не дивно: їх практично не залишилося. Отже, немає кому пригадати і розповісти сьогоднішнім росіянам про їхнє «щасливе» життя. Проте залишилося чимало їхніх синів і онуків, які не лише чули від батьків і дідів всю правду про ті часи, а й бачили ті реалії, в яких вони жили, є чимало спогадів і самих ветеранів війни, які до нас дійшли. …プーチンのロシアは、ソビエト時代に作られた神話によって生き続けている。最も広く一般化されているのが、第二次世界大戦の障害者退役軍人の幸せで豊かな生活という神話である。そして、これは驚くべきことではありません。そのため、今日のロシア人に彼らの「幸せな」人生を思い起こさせ、語ることができる人はいない。しかし、彼らの息子や孫の中には、両親や祖父母から当時の真実を聞いただけでなく、彼らが生きた現実を見た人も多く、戦争帰還兵自身の記憶もたくさん伝わっているのである。

Наприклад, у книзі Валерія Фефелова «В срср інвалідів немає…» — росіянина, який захищав нещасних і в середині 70-х був висланий з радянського союзу як «антирадянщик», йдеться про наступне.例えば、不幸な人を擁護し、70年代半ばに「反ソ連」としてソ連から追放されたロシア人ヴァレリー・フェフェロフの著書『ソ連には障害者はいない…』ではこう述べている。は次のように述べています。

«Хто з нас жив у росії після війни, міг бачити покалічених війною в латаних недоносках, часто з орденами і медалями, приречених тепер на убогість, напівголодних. Ці безхатьки просили милостиню в тих, кому завоювали мир. І враз їх не стало, вулиці були очищені від них, і мало хто замислювався, куди вони щезли. Розповідали, що сталін, якось проїжджаючи післявоєнною москвою, висловив невдоволення великою кількістю інвалідів на вулицях, мовляв, одним своїм виглядом псують обличчя столиці. Челядь зрозуміла хід думок „вождя народів“, і буквально через кілька днів почалася „зачистка“ великих міст від інвалідів».”戦後ロシアに住んでいた私たちは、戦争で不具になった人々が、つぎはぎだらけのボロを着て、しばしば勲章やメダルを持ちながら、今は貧困の運命にあり、半分飢えているのを見ることができた。これらのホームレスの人々は、平和を勝ち取った人々から施しを乞うた。そして、突然彼らはいなくなり、通りは一掃され、彼らがどこに行ったのか不思議に思う人はほとんどいなかった。戦後のモスクワを通過したスターリンが、街角にいる障害者の多さに不満を漏らし、「その姿だけで首都の顔を汚している」と言ったと言われている。チェリャビンスクの人々は「国家の指導者」の思考回路を理解し、わずか数日後、大都市における障害者の「浄化」が始まった。”

Куди ж відправляли вчорашніх переможців, які проливали кров і за рідну землю, і за вусатого дідька? Та просто у безлюдні райони «матушки—росії», яких там вистачає. Наприклад, острів Валаам на Ладозькому озері. Тут був заснований «будинок-інтернат для ветеранів великої вітчизняної війни». Як зазначалося в офіційному повідомленні, згідно з розпорядженням верховної ради карелії. Насправді ж про його створення ухвалювали не в петрозаводську, а в москві. На найвищому рівні.祖国と口ひげを生やした老人【スターリン】のために血を流した、昨日の【第二次世界大戦】勝ちぬいた者たちをどこへ送ったのだろうか? しかし、「母なるロシア」には、荒涼とした地域がたくさんある。 たとえば、ラドガ湖にあるヴァラーム島【острів Валаам】。 ここに「大祖国戦争退役軍人寄宿舎」が設立された。 公式発表に記載されているように、カレリア最高評議会の命令によるものです。 実際、その創設はペトロザヴォーツクではなくモスクワで決定されました。 最高レベルです。

Про ситуацію з фронтовиками-інвалідами російський журналіст М. Никаноров розповідає так: «У післявоєнні роки радянські міста були переповнені людьми, яким пощастило вижити на фронті, але які втратили в боях за Батьківщину руки й ноги. Саморобні візки, на яких снували між ногами перехожих людські обрубки, милиці й протези героїв війни, псували картину світлого соціалістичного сьогодні. І ось одного разу радянські громадяни прокинулися і не почули звичного гуркоту візків і скрипу протезів. Інваліди відразу були видалені з міст. Одним із місць їхнього заслання і став острів Валаам. Власне кажучи, події ці відомі, записані в аннали історії, а значить, «що було — те загуло».ロシアのジャーナリスト、M・ニカノロフは、障害を負った前線の兵士たちの状況について次のように語っている。祖国のための戦い。 戦争英雄の遺体、松葉杖、義足を乗せた自作の手押し車が通行人の足の間を走り回り、今日の明るい社会主義者のイメージを台無しにした。 そしてある日、ソビエト国民が目を覚ますと、いつもの荷車の轟音や義肢の軋む音が聞こえなくなりました。 障害者は直ちに都市から排除された。 彼らの流刑地の一つがバラム島でした。 厳密に言えば、これらの出来事は既知であり、歴史年代記に記録されており、「起こったことは起こったこと」を意味します。

Станом на 1 лютого 1946 року в Українській РСР проживали близько 500 тисяч інвалідів війни. Тисячі з них втратили на фронті руки, ноги, осліпли, дістали інші тяжкі ушкодження. І влада заборонила писати про них в газетах, друкувати їхні світлини. Заступник наркома з держбезпеки Богдан Кобулов ще у січні 1945 року наказав офіцерам держбезпеки вилучати їх.1946 年 2 月 1 日の時点で、ウクライナ ソビエト社会主義共和国【ソビエト連邦を構成する、加盟主体自治国としてのウクライナ】には、約50万人の戦争傷病者が住んでいました。 彼らのうち数千人が前線で腕と脚を失い、失明し、その他の重傷を負った。 そして当局は彼らについて新聞に書くことや写真を印刷することを禁じた。 1945年1月に遡ると、国家安全保障担当副人民委員のボフダン・コブロフは国家治安担当職員に彼らを排除するよう命じた。

[ «мвс срср доповідає, що все ще продовжує існувати таке явище, як жебрацтво. Органами міліції було затримано інвалідів-безхатьків: у 2-му півріччі 1951 року — 107 766 осіб, у 1952-му — 156 817, у 1953-му — 182 342. Серед затриманих понад 70 відсотків є інвалідами війни. Вони ганьблять нашу радянську владу. … 「ソ連内務省は、物乞いのような現象が依然として存在すると報告している。 ホームレスの障害者が警察に拘留された: 1951 年下半期 – 107,766 人、1952 年 – 156,817 人、1953 年 – 182,342 人 拘留された人々のうち、70% 以上が戦争で障害者となった者たちである。 彼らは我が国のソ連政府に恥をかかせている。]

— Вони збиралися у скверику біля вокзалу, — згадував житель Шепетівки Андрій Артерчук. — В одних не було руки або ноги, дехто — зі слідами від опіків на обличчі. — Сиділи на лавочках і просили у пасажирів милостиню на хліб. Коли вечоріло, інваліди, бувало, розпочинали бурхливі суперечки, лаялися. Найбільш невгамовних затримувала міліція, але потім швидко відпускала.「彼らは駅近くの公園に集まっていました」とシェペティフカの住民アンドリー・アルテルチュクさんは振り返る。 – 腕や足がない人もいれば、顔に火傷の跡のある人もいました。 ― 彼らはベンチに座り、乗客にパンの施しを求めた。 夕方になると、障害者が激しい口論を始めたり、悪口を言ったりすることがありました。 最も手に負えない者たちは警察に拘留されたが、すぐに釈放された。

彼らに対する待遇の改善は、スターリンが死ぬまでは起きず、ブレジネフ書記長の時代にようやく戦争に対する貢献への見返り措置が始まる。


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