本末転倒の社会 使えない博士って? 使えない教育論者たちw
日本で一時期オーバードクター問題が騒がれていました
最近は学費高騰と日本貧困化が進んだせいでさほど進学者はいないようですが、日本でも修士号くらいは大学院を出た学歴が多くなっていますよね。
博士とはなんぞや
日本
明治時代は
とある分野で独創的な研究や貢献をなし得たものにそれまでの経歴にかかわらず博士号の学位を与える
とあり、夏目漱石がある日突然東京大学から博士号を送られて事前に相談もなくけしからんと、学位記を突っ返した逸話が残っています。
これが昭和・平成になっても論文博士制度として残ります(外国でも似たような制度は名誉学位的にあります)。
日本ではその後、大学院に進学して所定の過程を終え、さらに研究論文を書くことによって(+博士号審査を受ける大学での個別のルール設定で、学会誌掲載とか、ケースバイケースで試験がある)博士号を得るいわゆる進学課程博士というのが出来上がりましたが、明治時代からの博士号のとり方が論文博士として残ります。また大学の方でもその大学の査定で成績優秀とか教員の気に入りでもない場合、その先の就職状況も良くないので、博士課程の進学を締め出す方針のところもありました。
実際には論文博士で博士になる人のほうが多かった。大抵とりあえず修士号(時として学部のみ)でうまく大学に潜り込めた人が、40過ぎて教授になるような時期に博士号がもらえるのが論文博士。
「論文博士の申請について」
https://www.soken.ac.jp/campuslife/degree/ronpaku/
若いうちから博士号がほしければ、大学院に行って博士号を取るようになったわけですが、分野によっては大学の就職とかの必須事項ではなかった。
さて時は流れ、21世紀が始まるくらいの前後当時、世界的に大学以降の教育課程を充実させようという高等教育ブームが先進国で蔓延し、日本でも大学院を拡充しようという日本政府の思惑で、各大学が大学院を拡充し、大学院に行く学生を増やす政策をはじめました。
さて、ここで問題なのは
日本の文部科学省は
博士号にふさわしい「学力」のあるものを博士号保持者とするという規定を設けたものです。「学力」という曖昧な定義があります。
ちなみに欧米では
所定のコースを終えて「研究するジャンルで新規もしくは特異な貢献」を行ったものに博士号を授与するという規定があります。ここで問われるのは、博士号保持者の能力は、特定のジャンルで調査を証拠に基づいた検証をした上で著述が行える能力なんです。「新規の課題を見つけ論証する検証力と文章力」が博士号の要件。日本でいう「学力」とはニュアンスが異なるわけ。
というわけで、外国の猿真似をして大学院拡充をしたところで、中身はぜんぜん異なるわけです。
コースワークの少ない英国の博士のほうがアメリカの博士より面白い著述を出す学者が多いのはよく言われます。日本の学者とかがこういう価値観の違うところで日本の「学力」式に物事を判断して、向こうではさっぱり相手にされないこともよくあります(向こうからすると「ハッセルが~Lレンズがあ~」のカメオタに見えるからで、差別してるわけでもコミュニケーション力の問題でもないのです。アメリカの有名大学映画コースは、「何かを知っている学力」の評価のウェイトは低いですし、入ってから始めることはいきなり制作チームを組んで疑似プロジェクトを始めさせる方式が取られ、その中で細かい技能を覚えていくという方式が取られてるので、目標設定企画力運営力が重要で、細かい知識を要求される技法の形から入る教育できた学生は相手が見つからず爪弾きになったりしてますが、同じことです。有名大学映像学科に進むような場合、アメリカの学生の方が全体の知識量はともかく、個々の技能で言えば(受験の要求が日本ほどではないので)高校時代からそれこそオタクのように習熟して、大学でも共同作業で知識交換で上達していくので、最終的な上達が早い)。
日本の博士「学力」(もちろん新発見も重視されますが、学力というジャンルによってはどうとでも取れる中身不明の要素が異様なウェイトを占める)・欧米の博士「新規発見を簡潔明瞭に証明する能力」なので、博士と言っても中身が異なるわけです。写真を撮ることが好きで、細かい理屈はあとという考えなら、海外系を勧めます。理屈から入っていきたいなら日本のほうがいいでしょう。人間学習方法には向き不向きがあるので、どっちがいいということはありません。*そもそも日本も古来より欧米式教育だったのが、明治に入り自由民権運動は排除したいが、身分平等機会均等のガス抜きに平民からの出世ルートを確保しておく思惑で、いつの間にか科挙式に入ったわけです。
知識伝達のデジタル時代、もはや大学自体、特に座学分野は大部分の日本国民には本質的にオワコン産業なので、今後一生懸命博士を取って大学教員になろうというのは、日本であろうが外国であろうがあまり勧めませんので、現状博士まで行くのは本人の見栄でしかないと忠告しておきます。日本の大学もいい意味でのんびりしていた時代もあり、本が主体の情報社会の時代は大学院へ進むことにも意義があった分野がたくさんありますし、のんびりした環境もある時代もありました。情報共有手段の少ない時代は、同好の士のコミュニティー形成にも役立ちました。でも、学校は、本ですら貴重品で大部分の国民が教科書すら買うことができないアナログ時代の産物です。
にもかかわらず、文部科学省や教育界はネット学習の基礎インフラ整備に全然熱心でなく、爺さん教員の年金までの生活費補助手段や、自分たちが予算が無駄使いできる金儲けしたい化石アナログ箱物学校教育にこだわってますがw。学校は運営の都合がありますから、自分のやりやすいタイプの能力の学生を集めるため試験を課しますが、そのタイプの試験が高校時代の多感な時期は特に得意かどうかは、個人によって適正の差があります。よく言う語学教育も、普通の学生に学校指定のクソ面白くもないジャンルの文章読ませても学習効果はほとんどなく、その学生が馴染むまで面白いと思うジャンルを読ませるほうがはるかに最終的な学習効果は高い(ネット辞書や対訳参考は日本語のものはまだ学習に不親切なものが多いですが、今や欧州語系は下手に大学に行くよりも効率のいい体制が整っています*大学じゃないんだよねそういうの作ってるの)。外国語が、ミミズから言葉に見えるような段階までは、学校では簡単な文法だけ教え、自宅で恋愛、漫画、ポルノとかエロ小説でもネット翻訳でも使いながら慣れ親しむほうが、大部分の学生には効果的な学習でしょう。そもそも日本語はそうやって覚えますよね?
数学など記号が主体のジャンルの学習も、ネットでのドリル式学習コースを充実させ、好きなときに反復学習できるようにしたほうがよっぽど効果が高い。アナログ式指導を否定はしませんが、補完的に行う時代。
さて大学院の拡充とともに大学院入学が比較的容易になったことで、その時期から入りだした学生や新規の博士号を得た人たちを馬鹿にする発言がまま見られます。
いまでも
博士号、特に理系では実験をしてその大学以外の主催する学会に学術論文を2~3報を発表することが条件の日本の大学が多く(東大とかでは特に学会誌に学術論文出す必要は、大部分の課程博士では今でもなかったような。欧米の博士号にはそんな規定はないです。博士論文自体が新規の貢献なので、在学中は博士論文に集中するのが本来なので、欧米のほうが制度として正しい)、博士論文を執筆して公聴会をパスして博士号という結果になります。
さてそういう日本の学会誌で掲載される論文2~3本を掲載して日本の大学の博士になった人は、使えない博士だという人がいます。そもそも博士号を取るのは、卒業後学会誌に掲載されるような論文を書いて、その道の専門家として知られることです(結果として大学教員とかになる)。学会誌に論文を乗せるような学者を訓練する機関である博士課程で、博士号を取る前から、取る条件として学会誌の論文掲載をやらせてる大学で、それでも研究能力がない使えない博士という評価が出るのは、文脈矛盾の謎。
ある意味では本末転倒。
そもそも、仕事でもある=学会誌に出せる能力があってまともな研究ができない博士ってなんなんでしょう?東大や海外有名大学には学会に論文掲載が博士の条件になっていないところがたくさんありますが、外部の学会誌での論文掲載が博士の要件で取った大学の博士が「使えない博士」ってどういうことよw
博士課程は学会誌に論文を出す能力を養成するために、新規の発見を得るため、資料や実験機器を使いこなしながら、その調査結果を証拠に基づいて要領よく説明する能力を身につけるところです。論文博士のようにその道で大物になった証として学校に通わずとももらえる博士とは違います。それを博士課程の途中で学会誌に論文が出せる能力と結果を問うておきながら、その条件をクリアーした博士が「使えない博士」って?
そう、博士号の水準が低いのではなく、そんな博士候補生でも論文が掲載される日本の学術雑誌のほうがレベルが低いのです。そしてそんな低レベルの学会の学術雑誌を主催している大学の教員たちももっとレベルは低いんです。下の世代を叩いていれば自分が正当化できるみたいなやからが多い、木を見て森を見ない日本の教育の問題の本質みたいな話。
またまた議論のすり替えで自分たちの世代は偉かった論を出したがる、社会保障費を食いつぶす無駄な老人世代の陰謀かw
*ノーベル賞には大学のランクは関係ないです。田中さんは学士でノーベル賞。
*米国とか21世紀に入ってからアジアに感化され、就職希望者に大学の成績GPAを提出させるところが増えましたが、後にかえってろくな人材が集まらないという調査結果で、大学卒業不問の会社が逆に出だしたり、職業や職種ではエントリーにGPAのスコア入れさせても全然参考にしないところも増えました。ただし終身雇用崩壊とかでアメリカや欧米でも、いい学歴いいスコアにこだわる若者が増えだしているのは事実ですが、採用する側とすれば妙な学歴信仰の浸透等は逆に、学歴やスコアは必ずしも重視しないところが逆に増えだしている傾向も出てきています。*会計や司法絡みの仕事だと、いい大学いいGPAの論理はかなりの確率で働きます。米国でも、名門大学上位卒業者しか絶対採用しない法律事務所は、「一定数」存在します。でも、ハーバード大学とかは超エリート大学ですが、卒業者や関係者はハーバードの意義は、(アメリカの司法試験はそれほど難度が高くないので、入学難関大学名でランクを見極めたい雇用者側の)一応ババを引きにくい人材選別機関としてのブランド商法である側面もあると認めていて、そこの成績上位者が学校の課題こなしである程度優秀であっても、実務では下位校の落第ギリギリの連中に数年たつと逆転されたり、三流とかいうのは、本来ごく普通のことだとも述べます。そのため、新卒はあえて下位校から採用する法律事務所もあるくらい(経験者で実績がある人物であればエリート校出身者も積極的にアプローチして採用しますので、上位大学だからだめということはない)。