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高級デジタルカメラとともに終わりを告げる大学教育の急速な衰退:「大学は無駄」という意識がアメリカ人の中で常識となっている現実 2022年の教育の現場

Why Americans are increasingly dubious about going to college アメリカ人が大学進学にますます懐疑的になっている理由

An “alarming” number of people are rejecting college — and it could widen the fissures already polarizing American society.「憂慮すべき」数の人々が大学を拒否しており、それはすでにアメリカ社会を二極化させている亀裂を広げる可能性があります.

Aug. 10, 2022, 5:30 PM JST

NBC UNIVERSAL

By Jon Marcus, The Hechinger Report

https://www.nbcnews.com/news/us-news/americans-are-increasingly-dubious-going-college-rcna40935

*アメリカは連邦国家(参加国が連邦政府に一部の国家権限を委託している形)で、日本の自治体とは異なり、各州が国家主権を持つ「国家」なので、教育など、内政権は大統領にはほとんど権限がなく、ほとんどのことは州知事が管轄し、国立大学はなく、州ごとの大学がある制度

In West Virginia, 46% of 2021 high school graduates went on to college the following fall, 10 percentage points below that state’s high of 56% in 2010. Fifty-four percent of 2021 high school grads in Michigan went straight to college, down 11 percentage points from 2016.(上記NCB記事)ウェストバージニア州では、2021 年の高校卒業生の 46% が次の秋に大学に進学しました。これは、2010 年の同州の最高値である 56% を 10 ポイント下回っています。 ミシガン州では 2021 年の高校卒業生の 54% が大学に進学し、2016 年から 11 ポイント減少しました。…

と各州によって差はあるが、大学進学率がどんどん下がっていることが指摘され

Americans are increasingly dubious about the need to go to college. Fewer than 1 in 3 adults now say a degree is worth the cost, … I just have more and more parents who are saying, ‘Nope. You’re not going to do that. You’re not going to a four-year college.’”…Her students’ parents “just don’t value education the way they did in the past,” said Amanda DeBord, an adviser in a statewide program in Tennessee called Advise TN. … Ever Balladares, said his classmates’ parents in the Nashville suburb of La Vergne used to tell them, “If you don’t go to college, you’re a bum.” That has changed, however. “They don’t think that anymore.”アメリカ人は、大学に行く必要性についてますます疑念を抱いています。 現在、学位を取得する【大学を卒業する】価値があると答えている成人は 3 人に 1 人未満です。 あなたは大学にはいかないのよ。 あなたは 4 年制の大学に行くんじゃない。」…彼女の生徒の両親は、「【彼らの若い頃が大学に行っていた】以前のように、【大学】教育を評価していないだけです」と、Advise TN と呼ばれるテネシー州の州全体のプログラムのアドバイザーである Amanda DeBord は言いました。 . …エバー バラダレスさんは、ナッシュビル郊外のラ ベルニュに住む同級生の両親は、「大学に行かないとダメだ」とよく言っていたと言いました。 しかし、それは変わりました。 「彼らはもう【大学にいかなきゃだめとは】考えていません。」

もともと大学とは、

1:一部の現実世界から隔離された、比較的自由知的空間の中で自由に発想を広げ、研究をし新しい発明につながる文化村

2:リベラルアーツ系の大学、就職に心配のない富裕層の子弟が、制限のある生活で規律を覚える、交友を広めるための文化サロン

という流れがあり、これらが本来の大学ですが、

日本や東洋では、これが官僚養成学校と混同されて発展し、人材のランク付け機関であるかのように誤って発展してきました、

日本のカスゴミ=マスゴミの言う大学の価値って、予備校の入試ランクごっこ資格商法と、文部省のランク付け、国家公務員採用試験(安倍政権でようやくかなり改まりましたが)の価値観に染まったままで、コイツラの言う大学は本来の大学ではないわけです

上に上げた1、2もインターネット革命によって、知識を集積する場所として価値を持っていた大学の価値を大幅に下げました。

日本は、2chやその他アホチャンネルなどの汚染でネットはめちゃくちゃですが、アメリカではオンライン学習は今や充実し、大学などの三流教員教師に習うより、自分のペースで学習するという効率の良い学習が可能になったジャンルが多数あり、高い学費払って大学に行くより、オンライン学習のほうが安上がりで

アメリカ(や英国豪州、カナダ)の大企業も、こうした人材の採用枠を実際に設け、求人から学歴要件を撤廃した企業がどんどん増えたのも、大学進学者の数が減る理由となりました。

もともと、アメリカなどの企業や官庁は、入社試験ではなく、インターンや職場や、他の実務の才能で人を選ぶので、大学行って採用試験や入社試験に出やすいところを習える大学に行く必要もないわけです。

https://www.google.com/

資格・学歴・大学は無駄? 東大教授のバカにすることをたくさん勉強しよう!

大学が2018年ごろから少子化のお寒い状況、かつての過剰な学歴資格の信仰の反動で、資格や学歴を軽視する風潮が、学歴社会といわれる日本の社会の中でも、日本のマスメディアと旧来の構造を残した組織を除いた実際の場面でちらほら見られるようになって来たことに危機感を抱いているの連中もいますが、

『無駄の効用 東京大学教授 西成活裕 2017/1/11付日本経済新聞 夕刊』

http://www.nikkei.com/article/DGKKZO11537280R10C17A1MM0000/

 などという記事が、高学歴低脳ガセネタ満載、「マスごみの手本日経新聞」に出ていますよね。*ピクスタや各種マイクロストックなどにアマチュア能天気な連中をかき集めて、著作権を買い叩いている張本人のひとつ。日経新聞社絡みのストックフォトに限らないカメオタインテリのガセネタに洗脳されて、人生無駄にした人が多ですね。
 『例えば私が高校生の時、大学受験に関係のない科目を勉強するのは時間の無駄だと思っていたが、20年後にそうした知識が役に立って研究論文をまとめることができたのだ。』(同記事引用)この記事の中には、研究論文という一般人には高尚に思えるような言葉がありますが、実際の中身はどうなのかはわからないので、それが本人の言うような価値あることに役立ったかどうかもわからない(マイザの元社長のブログと同じかな?)。でも「受験にかまけて無駄なマンガ・アニメをもっとたくさん読まなかった、自分の得意な科目に集中しなかった、いろんな実体験をする実習体験を怠けたこと」で、20年後にそうしてれば得れたろうヒントが生きなかったというケースは、いろんなジャンルでも想定できます。
 学校の科目の勉強はそこそこでも、学校の授業や試験作成者の『基礎だと自称」想定すること以外の、「彼ら学者・学校の価値では無駄な勉強をたくさんしていた」ことが実際の仕事に生きる場合もあります。欧米の大学は前者の査定で優秀だという人以外にも、後者をありがたがっているので、受験科目の成績にかまけているばかりの人間が必ずしも優秀ではない、という発想は間違いじゃないわけ。
もちろんこの東大教授の言うことをありがたく脳みそにコピペする必要はありません。もう特権のある帝国大学じゃなくて、基本は(国家が重点的に保護・補助するが)民間団体です。権威的にはいまでは[フォトマスター検定と大差ない]。彼ら自体も人間ですから、所詮は自分の既得権のために行動する人種です。発言も自分の既得権のための発言が混じっていないか注意して読みましょう。講座廃止の危機とか、予算が少なくなっているジャンルの教授は詭弁で自分のやっていることを守ろうとする傾向がありますから、この人物がそうでない保証はない(フォトマスター検定設立に、仕事依頼が冷えあがったカメラマンがいたのは知っている人には有名な話)。*そもそも海外の学生を対象に無試験推薦入学を行ったら、合格を出した大部分が海外の大学に逃げちゃったという笑えない実態なのが東京大学カメオタ権威なのですから。東大自体、自分たちの既存のハコモノの仕組みを一切いじくらないで、AO入試だけを入れようとする、まさしくハッセルがア~プラナーがア~というカメオタ教育改革しかできない悲劇なのですが、自虐なのかw
とかく科挙の影響が強い東洋文化の中で日本の受験学歴資格信仰は、東洋文化の特徴と考えられる風潮が強いです。
 が、科挙は韓国やベトナムで採用されましたが、日本では導入がされなかったものです。
 実際の日本で科挙めいた文化の影響で学歴・資格試験・採用試験そういうことが重視されたのは大正時代からです。日本でもそれまでは高級官僚とかは天皇が、実際の実績がある人を直接指名する欧米式がとられていました(試験採用組は現在のアメリカと同じく下級扱い)。これが江戸時代からの身分制の名残や縁故による弊害はなくもなかったのですが、大胆な大物が出てくる、必ずしもどっちがいいともいえない状態でした。
 大正時代、大正デモクラシーの流れで、『平民からの出世を増やせ』という圧力と、当時の首相が対立政党の幹部が官僚に取り立てられるのは、政権運用的によろしくないとの考えで、当時は主観の入りにくいと考えられていた、徹底して点数化しやすい試験制度による身分平等化を進めたのが、始まりでした。(追記・民主主義要素は排除したいが、平民向けアピールに「平民にも学校や検定で点数さえ取れば出世の道がひらけている」という欺瞞政策)昭和時代の20年代になると、上級試験を通ったものが下級官吏試験を通ったものを見下す文化が出始め、他のいろんな分野でも、たとえば、大学偏差値信仰、資格バカと称される一連の人々にまでエスカレートして、
今度は、『東大に入る受験勉強でがんばったオレが入試をがんばっていない連中と同じなのはおかしい』とか
カルト宗教化して本末転倒状態になり(フォトマスター検定やその他ペーパーテストにかまけて肝心の写真がいつまでたってもゴミみたいなのは散見できるので、入学試験の勉強をがんばったのはそれはそれで偉いのですが、そんなの東京大学という施設の整った大学で勉強する機会を与えられたという特権をえるだけの資格であって、それを大学の外に持ち出すのはひげはやした子供)、学歴を採用条件や出世の材料にする保守的な団体は別にして、反動が出始めたわけです。
 東大中退ホリエモンが「大学は無駄」という発言、あちこちで取り上げられていますが、ホリエモンは勉強するなとはいってませんよね?ホリエモンは、ネットの発達でいろんなネット講座や交流ができる、勉強も各種セミナーや放送大学などで、自分のペースで勉強できる時代、授業料がかかり、大学で勉強する資格をえるような、受験勉強は無駄(脳みその硬直した採用企業がそういう学歴をほしがるという現実があることを除けば)といってるだけですよね。彼自体はライブドア社長時代、社員の学歴にとらわれず役員に採用してた経験もある人でしたね
 知識が本など印刷物でしかえられない時代、そうした情報を集める大学は無駄に神格化されたものの、学ぶ意味はありました。情報伝達がアナログなので、知識占有自体が、付加価値を生み出し、知識人の地位とそこの村に入り込むための利権構造が出来上がるわけ。そこで勉強する資格を与えてやるんだ、また企業が従業員ブランドに大学名をほしがったといって、権威や利権構造が生まれた。入学をさせてやるんだという特権利権構造から、日本独自(韓国や中国も一緒だが)の大学ごとにてんでばらばらの目標設定の個別入試と称し金をふんだくって、多くの大学の収支は成り立っています(欧米は国家共通試験かそれに類する『バカでない証明』くらいものしかなく、大学個別の試験はまれ)。入試自体が儲かる構造が日本の大学にあるということは忘れちゃいけません。
 写真などでは特にアナログ時代は、フィルム現像廃液とかの処理、高価で自宅に置くには厄介な大判カメラ、これもまたフィルムのころは感度が上げられないため大出力のストロボ、撮影ジャンルによっては大掛かりな設備が必要だったので、そうした自分では買い揃えられない、機材、設備使い放題の学校の意義は、授業そのものが口だけ三人前の教授のオナニーであっても、ありました。でも機材が小型軽量デジタル化、ストロボ関連も低価格商品のあふれるなど、一般の人も何とかそろえられる条件が進んできた今だとどうですかね?授業料より、その金で機材とソフト買って実習にスタジオ自分で借りて、必要に応じてセミナーに通う。のほうが効率も費用的にも、(学校のように授業に合わて生活する必然性はない)時間的にも効率いいんじゃないかな?
  昔は学校には就職の斡旋という、強力な人脈があった時期もありますが、その力は今はほとんどないし(現像所とか大幅縮小、アシスタントを雇えるカメラマンが減ったせいもある)、あっても極小数のラッキーな学生しか手に入らないものです。

てんでんばらばらの難易度や目標設定で教育や入試が行われるということは、よく言えば多様性があり、悪く言えば、オナニー教育

大学は学問の場といわれます。しかし日本の大学の現実は官僚や職業人養成学校が始まりで、大学課程と、いろんな職業の国家資格が結びついている度合いが高く、さらに試験はむつかしいものがありがたいとう言う国民性と連動しているので、大学ごとにばらばらのことをされると学生はこんがらがるのです。

桜井という人が『薬剤師国家試験の出題の難しさ』という文章かいてます。大分昔の記事なのですが、今でも多くの国家検定で似たような課題は残ったままのことが多いでしょう。
 国家試験は、一通りの必須基礎の問題は当然ですが、それ以外の出題もどこの大学の学生にも公平な試験であるべきというのが理想なのですから、各大学で学生が出題内容を学んでいるかどうか把握するのが試験の問題作成の前提にあるのです。しかし、実際は各大学ばらばらの教育内容であることが多く、しかも各大学はどんな教育内容を行っているかの調査にもろくに答えないところが多く、出題者がどんな問題を出せばいいのか混乱している。試験の出題傾向分析にたけた教員のいる大学の学生は、ただむやみに勉強してる大学の学生と比べて回答率が抜群に違う。毎年同じ問題は出せない、クイズではなく、あくまでも国家指定の資格試験なので、出せる出題の範囲は決まっている、必然的に問題出題自体が素直な出題は困難など、試験制度における試験の難しさを述べていますね。

 


内閣人事局制度と官僚キャリア制度

写真の学校に行く必要あるの?

アメリカのコミュニティーカレッジ卒より意味のない日本の偏差値名門大学 スコアより経験値の世界: 大学無用の時代 フィルムならではの味とか同じ「手作り授業」を言い出して、国民を搾取し前世紀の箱物教育機関存続を図る大学教授と文部科学省無駄飯食いという「社会の寄生虫」 たち 参入障壁が増えれば自分たちの既得権確保と年金確保にもいい話だしねw

高等教育よさいなら、オワコンの大学の教育 デジタル・オンライン教育の台頭 予備校と大学利権産業に踊らされるな


学歴と生涯収入 投資としての学歴は有効か?

自称教養人・インテリマスコミ=マスゴミのさもしい学歴ネタで稼ぐ商法

TOEICとバカの壁

学歴

マイクロストック参加者の実態 まあ、こういう検索キーワード多いですよw アーティストだ合格だかで舞い上がる安い労働力

MBA (笑い) 学歴依存、お受験コンクール文化

国立大学に文系は不要 の議論について

古典を読む意義とは? 読書の喜び 目的もなくただの名作信仰なら、マンガ読んでるのと大差ないですw

人文学科の縮小 文学部は要らない その2

という具合に根強い学歴信仰の残る日本を茶化す記事を多く残してきた本ブログですが、この点ではホリエモンが非常に正直なので、『大学も資格も無駄で、資格商法だと』と断言する彼の意見を賞賛しました(彼の意見がつまらないときは当然詰まらん意見、アホと書くのが、北朝鮮情報管理のネット管理社会日本を脱し、岩窟王のようにはいあがるこのブログ)一見小難しいもっともらしい資格や学歴というものを、採用・出世の必要条件のように神格化して、国民を家畜化、関連団体を肥大化させる政策というホリエモンの指摘は正論。

ここではつまんねえ高学歴バカをくさす記事が多いのですが、学校で優秀であった人は、それはそれで卑下する必要は無いです。このブログで、「ネットにあふれる高学歴低知能」という言葉を連発するのは、学力なる定義もあいまいで、言っている本人が意味も分かってなさそうなものを、アラーの神のように信奉する受験バカ資格バカが多すぎ(まあ、国家管理的には扱いやすい洗脳された家畜ですけど)ですから、あえてくさした文章が多くなるのです。

学校というのは基本的に、秘書官タイプの才能を育成する場所で、特に東洋の大学はこの傾向が強いです。学校のランクはその能力に比例します。そういう才能は試験で設題も楽で、点数にしやすく、学校を運営する側にも難易度を上げるなどではったり的に自分のステータスを上げることも容易で、しかも授業を組みやすいので、必然的に学校という場所は、苦手な科目が少なく、言われた課題を幅広い分野で平均的にそつなくこなす能力が高い人に有利になります。しかし、課題の設定方式でも「学力」は結構変わるので、能力判定は難しいものですけど。

国語でいえば資料を整理する能力の高い人(たとえば図書館の司書とか目録作成係)が、学校では成績もよく待遇をよくされます。国家の役人としては便利な人間なので、役人採用で日本式の偏差値的にトップ大学が多くなっても、別に不平等じゃないわけです。ただしそういう人たちが国語を使って名文が書けるかと言うと、学校や資格試験はそういう才能を育成するには適切な場所ではなかったりするわけです。

そういうことが得意じゃない人は、政治家のいうことを黙々と書類にまとめる役人の仕事は、本来の性格とはあっていないので、無理して学歴資格命みたいに役人になって人生送ると、どこかで精神に無理がかかり、つまらない覗きなどやって人生を棒に振ることになります。

この学歴と(役人登用試験)科挙混同文化の問題点は、学歴とか採用試験が人生の終着点みたいな文化を生み出したことでしょう。早い話が難関資格採用試験とか合格で人生が終わる。試験自体もとにかく難関なものがなんか高尚なもので貴重なのだという風潮。これも大学の評価が、偏差値信仰に支えられていたものが、自分たちの研究成果評価の重視になり始めると、大分変わってきました。一部資格も業務必須資格では無く、名称独占資格(資格が無くても仕事に就ける)にしようという流れは、日本の政府内にも出始めています。

日本でも名門大学出てお役人になって人生安泰という文化が徐々に崩れ始めてきていますし、かつては採用する側も日本経済がほっといても伸び、売り上げは一定数伸びるのため、新卒採用に余裕があったので、適当偏差値的に入試がこ難しそうな大学を中心に採用し(試験をする場合も、大体名門とされる大学の入試などを参考にした入社試験の内容なので、出題傾向設題とかが似た公務員の採用試験対策勉強でも熱心にしていないと非名門大学の学生は通らない)、入った後は、はずれであれば左遷や子会社出向で冷遇しますが、一応は定年まで給与は出していた。しかし、民間企業でも正社員採用と年功序列終身雇用が減ってきて、難関大学いっても正社員や役人になれない人も出てきて、成果が出ないと昔のように子会社へ飛ばす余裕も無いので、やめるようにあらゆる手段で退職させるなど普通になっている。

このため、費用時間なども考えれば、いっそ学歴採用資格などの受験科目以外の勉強をして起業に走った方がいいような時代が来ています。受験科目が得意じゃない人はそっちのほうが昔から良かった。ので、役人適正試験のような各種資格・学歴・採用試験をあがめる風潮は徐々になくなって行くようですが(日本の場合中途半端な形でしか起業支援法制・制度が無いのでしり込みする人が多い)、起業に必要な才能は、学校では教えにくい才能で、実際の創作でいうと、(プログラム・小説・写真)のできばえと対人折衝力営業能力なわけです。創作能力は、感性・センスとかいう言葉ではぐらかされていますが、思考を実体としてまとめる(具現化)知能です。この能力が高いかどうかは、文字にして説明するのも難しく、教えにくいので、学校教育とかでは効率・制度的に判断選抜が難しいわけですので、感性とか言う言葉で逃げちゃう人が多いわけ。これも人がどうやったら関心を持つかを勉強しなきゃいけない部分がある(偶然のスナップであっても、普段から出会いがしらの偶然で面白い写真とはと考えている人が強いので、勉強自体はいります)

上の過去記事ではグーグルで、大学に行っていない採用者が増えだしているという記事を何回か紹介しましたが、グーグルで必要なのは特にプログラマーですが、独創的なプログラムを書く才能というのは国語でいう独創的な名文を書くというのと同じで(写真でいえば人が感動する写真)、学校教育というのものでは制度上育成できない才能であり、名門大学を出たとか、学校の成績が良かったということでは判断しにくい才能だからです。基本同じことは写真とかでも言えます。学校というのはどちらかというと、新規の創作を生み出すというより、古典劇とか、伝統保存のほうに向いている。

もちろん名門大学にも天才プログラマーがでる可能性があるので(特にアメリカは人物・一芸枠(在学中の成績や何かは見込めなくても、卒業後に名をはせる可能性があるなど=日本のアホどもの始めた特色入試は在学中にカメオタ的高位成績を期待した一芸方式で、似てるようでもまったく違う)が難関大学でもありますし、東洋の大学で優秀であっても欧米ではカメオタ君扱いの場合があるので、受験の申し子で無きゃ難関に入れないわけでもなく、面白い人はたくさんいます。大学院になるとその傾向はまします。向こうの大学院は(LLMやMBAのような場所は別ですが)面白い独創的なことをする人は劣等生でも歓迎なのです)、金銭時間的に進学できる環境にあるなら、名門大学に行くのはありです。しかし名門大学に在学する天才なんて引く手あまたで、インターン実習生としてきた場合でも月給100万提示する会社もあり、グーグル以外の、たとえばはじめたばかりの会社だと、給与がまず払えません。

そこで学校に行く勉強そっちのけで独創的なプログラムの勉強やってきたような人材が、資金の少ない新興企業には引っ張りだこなわけです.また、実際名門大学に行って企業のほしがる技能を持っている人は、学校で習ったわけではなく、余暇に独学でそのスキルを身につけているのが実情。早い話が学校の勉強まじめにやっている人ほど、IT産業の求めるスキルが身についてないということになります。


参考

【寄稿】IT新興企業が大卒者を求めない理由 DANIEL GELERNTER 2015 年 9 月 7 日 16:30 JST

The Wall Street Journal 日本語版

http://jp.wsj.com/articles/SB11970227293124023368304581218081420256422

この記事では、大学は企業の求めるスキル開発に時間を割かねば、という主張がありますが、結局多くの人は仕事で使えるスキルで大学の学位が役に立ったことは無い、一番の貢献者は大学にいっていないと書くように、現在学歴を就職条件にしているところが多いが、本来起業と仕事で大学教育は必要なのかという文章も書いています。プログラムも一種の作文ですから大学といった教育システムで、その才能を育成・発掘するのは無理かな?写真についても写真学校がたくさんできていますが、実績的には、米国では写真学校を経ていない著名カメラマンが出てくるほうが、圧倒的多数な現実があり(デンマークのユーリ・アーカースにいたっては写真学校は無駄と登校しなくなっている)、近年のほかの例としては多数の高学歴カメラマンを圧倒して、一躍名をはせたLiseは中卒ですし、学校教育の限界を示しています。今彼女が、Gettyで大部分は没落する大卒のカメラマン希望受講者たちを教えてるのが現実。ノーベル賞でも米国の受賞者は三流大学出が珍しくないわけ。

http://jp.wsj.com/articles/SB12572346946470444848304581519493048124756

アメリカは自由競争の国なので、かつての日本のように、経済が成長する間、護送船団式で予定協調で物事をやってれば、自動で市場のパイが増えて行くので安泰という社会とは違い、学閥とか言ってると、たちまち没落する。そのためお行儀がいいとかより、結果が出ることが重要になってきます。アメリカでは、小さいミスはしても大きな魚をつれる才能が必要なわけ。この記事では、 『所得格差が最も大きいのがビジネス専攻者で、難関校の卒業生の所得は中間校の卒業生と比較して平均12%、非難関校の卒業生と比較して18%それぞれ多かった。』同記事引用

とあるように、ビジネスという、もっとも学校歴・学歴格差が多い分野でも、一流難関大学でた人間は(ほぼ無試験入学の)三流大学より平均で18パーセントしか所得が高くないという結果。当然平均ですから無職に落ちぶれた一流大学出身者の数も決して少なくないわけだし、三流大学から出世した人も結構いるわけです。

日本でも仕事の無い弁護士は珍しくなくなってきてますが、アメリカははるかに厳しい競争があるので、資格試験合格までの経歴より、実際の仕事能力を求める傾向が日本より強く、あえて名門大学出てる弁護士は要らないと宣言する弁護士事務所まであります。

「アイビーリーグの卒業生はいらない-採用を禁じる米法律事務所」ACOB GERSHMAN 2015 年 7 月 23 日 13:23 JST

http://jp.wsj.com/articles/SB10777827119304873821304581125301264102520

『最も優秀な応募者は評価の低い大学にいると指摘している。』 ということで名門大学の新卒は入れないという方針ですが、あくまでも新卒としての名門大学出は、はずれ率が多く期待した仕事ができないのが多いので、いらないというだけで、中途で実績がある名門大学を出た弁護士は採用しています。

「ゴールドマン、名門大学の学内面接廃止へ応募者はビデオ面接を受けなくてはならなくなる」By LINDSAY GELLMAN 2016 年 6 月 24 日 14:45 JST 

http://jp.wsj.com/articles/SB11084185715531594181404582147923308844262?mod=WSJ_article_EditorsPicks_1

日本ではGSは偏差値上位の大学卒業者しか採用しないと、一種の学歴信奉者の指標とされてきましたが、名門大学に行く一番のメリットは、こういった投資会社側がその大学まで出向いて、直接面談やガイダンスをくりかえし丁寧に行い、学生の実際の人物評価がなされやすいので、他の大学にいった学生のように応募数が多すぎ、単に書類・ブランドで振り分けられる可能性が低く、有利になることということです。ただし、↑の記事でもあるように、在籍期間が短い傾向がある名門大学卒業者より、非名門校系の学生の拾い物(偏差値カメオタ学力が優秀って意味じゃないよ)を得るチャンスを広げたいような意図も読めます。

 


追記

イギリスがEUから離脱すると

の記事を書いたとたんに早速『高学歴 EU イギリス 残留 賛成 投票』という検索ワードが見えます(苦笑)アクセス稼ぎに高学歴という言葉が、日本では有効だから、みんな学歴学歴と騒ぐわけw

また、日本の読者は残留というキーワードが多いように、英国民より外野のほうが残留望んで、残留派に都合のいい記事探して躍起になってる様があります。


 

自称教養人・インテリマスコミ=マスゴミのさもしい学歴ネタで稼ぐ商法

さて、2013年あたりまでは、グーグルはエリート大学卒しか採用しないかのように、アメリカの超学歴社会とひたすら煽る記事が目立っていた日本ですが、グーグル本社から否定発言が出てからは、なりを潜め、今度は韓国の学歴社会をネタにする妖怪マスゴミが増えました。

http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20151022/frn1510221540008-n1.htm

手に職ある韓国人 学歴差別の恐怖で大卒の肩書ほしがる傾向 (1/2ページ)
2015.10.22 SAPIOの記事

[工業高校、商業高校など実業高校で専門知識を学んでも卒業後に就職せず、大学に進む若者が非常に多い。]
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20151022/frn1510221540008-n2.htm

とか、最近の日本の高学歴低知能メディアは韓国の学歴熱をほかの国のことなのに、わざわざ紹介する率が高いです。日本て、韓国に見習えってことかしらw

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さて、SAPIOのZAKZAKで載せた記事を、韓国の新聞記事で検証しましょう。いつもの面白い国内マスゴミの矛盾点が出てきます。

韓国の有力紙が日本で出しているtesoroによれば、(テソロ(Tesoro)は、韓国の全国紙「ソウル新聞」が日本で発行する月刊タブロイド紙です。)
http://tesoro.jp/site/2014/02/13/vol2-%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AB%E7%95%B0%E5%A4%89/
[vol2] 学歴社会の韓国に異変

「政府が高卒者の雇用拡大に取り組み始めてからの大学進学率は、2000年代末から減少傾向にある。全高卒者の大学進学率は、09年から昨年まで77.8%、75.4%、72.5%、71.3%、70.7%と減少を続けている。また、同じ期間、特性化高校(専門学校的な高校)の大学進学率も71.3%から41.7%に落ちた。」

あれ、韓国自体の記事ではかなりニュアンスが違ってきてますね?

もちろん韓国では、戦前から昭和中期の日本と同じく、出身校学閥が根強く残っており、大企業での出世に出身校の学歴がものをいう風潮が、まだ意識としては強くても、大分変わってき

た現在の日本よりも、相当に根強いため、有名校への競争は熾烈なわけです。しかしソウル新聞によれば、zakzakの記事とは違い、韓国のエリート自体が学歴のための学歴に走る自国民に対し、国策で高卒就職枠を増やすなどして、ブレーキをかけようとして来たことが分かります。また、さらに変わらない学閥主義のため、出世に結びつかないような大学にいってもムダという意識が韓国にも広まってきたという論旨が読み取れます。
しかも学歴社会といいながら、ソウル大学も不景気になると就職率は5割になり、景気のいい年でも就職できない人間が大量にいる大学です。結局会社は、役員幹部候補をソウル大学など、名門校からのみからとるというだけで、その数は決して多くなく、逆にソウル大卒は、一般社員ではいらないということになります。学歴社会というならソウル大卒は一般職でも大人気で、常に就職率100パーセントのはずよね?これって、韓国で言う学歴社会は、学校歴による役職制限なわけです。
また役員候補として入社しても、出世レースから外れたソウル大卒は給与が無駄になるため、45くらいで追い出されたり首になったりして、その場合使えないソウル大学の卒業者というレッテルつきで、再就職はバイトとか、トータルでは無名大学より悲惨になって、ソウル大学にいって損した人間も多いこともあります。ただ無名大学出身者は、出世が限られる風潮が残っているため、出世の可能性という淡い期待をかけて、ソウル大など難関大学に挑む学生はたえていませんが、学歴身分制度みたいなおかしな状況になってるわけ。

やっぱり人間なので適当に発破をかけたりしないと人は勉強しないので、ある程度学校ランクなども通じて競争はいりますが、本来はマラソンの中継点でしかない学校歴が目標になる、形骸化した学歴競争では本末転倒ですね。

日本でも一時期の偏差値宗教みたいのが、まだ強いとはいえ、だいぶ衰えてきたのは、有名校出身でも、面接すら呼ばれない、採用されても昔みたいに終身雇用年功序列で昇給約束できなくなって、(それまでは大卒であれば、地方に飛ばしたり、実際には「部下はいない窓際係長課長」くらいで飼い殺し位は面倒見ていた)結果がでなけりゃリストラ部屋行きが普通になったこともありますが、日本人の自発的な変化だけではなく、東大京大卒業者以外からノーベル賞が出まくり始めたこともあるでしょうね。

 「韓国の新韓銀行では、個人融資の際の信用度を点数化し、高卒者13点に対し、大学院卒者54点と4倍の差をつけていたことが分かった。高卒者は信用度が低く評価され、融資拒否や不利な高利融資の対象となったという。」 http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20151022/frn1510221540008-n2.htm という内容もあります。
が、大学院行って無職のままで終わることも多くなっている韓国で、学歴主義といいながら、無職の大学院卒にまで54点つけるほど暇じゃないですよね。職のある高卒>ぷー大学院卒は、学歴詐称で高卒の仕事に群がる大学生たちが韓国にも大量にいるということから分かります。
なお、新韓銀行は在日の韓国人の方が、本国の銀行を買収して始めた銀行なのが笑えますがw

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まあ、こういうのはグーグルの超高学歴者しか採用しないという、主にアジア系のメディアが広めた、自分基準での中身の曲解であったりすることはよくあります。*過去記事・「マスコミという産業廃棄物と情報操作」 https://stockmoneyphoto.wordpress.com/2015/06/05/%e3%83%9e%e3%82%b9%e3%82%b3%e3%83%9f%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e7%94%a3%e6%a5%ad%e5%bb%83%e6%a3%84%e7%89%a9%e3%81%a8%e6%83%85%e5%a0%b1%e6%93%8d%e4%bd%9c/&lang=ja これ見ると、高学歴者しか採用されないとうわさされたグーグルは、その実いろんな学歴の人間を採用しつづけたことで、過去の学校の成績や学校ランクと、社内での成績が必ずしも一致しないというデーターが出来上がったことが分かります。

この記事が出るまで、日本のマスコミはグーグルでの学歴ネタの話で盛り上がることが多かったですが、グーグル米国本社人事部から否定発言が出てからすっかりだんまりになっていますね。学歴ネタで読者稼げないと分かったからw*グーグル自体は、勉強する場所や、試験という「ものさし」での評価ブランドには、アジア系に思われているほど価値は無いという判断を出しただけで、自分のための勉強とかを否定してるわけじゃないです。

もっとも米国本社では学歴不問、日本支社では大卒に採用を呼びかけてるので、グーグルの判断は、日本の教育だと、大学でててもアメリカの中卒にすら劣る=アメリカの高卒>>日本の大卒という、データーがあるのかもしれませんがw

*最近は、こういうグーグルなどでの検証データーがで回ってきたことで、アメリカの低ランク大学のみならず、中堅から結構いい大学まで、米国の大学センター入試ともいえるSATの試験結果を、入学選考の参考にしない試みを始めているところが増えてきています。アメリカの大学は、入学後あるいは卒業後、何かをなしえる人ということで入学する学生を選び、カリキュラムはやりながら形を作るように、広く浅く設定されているので、大学基準での出題範囲による公平性を持ち出し、教育内容もカリキュラムが分散してたり、形から入ること基本に細かく設定される(この体制のままで、アメリカのAO入試を形だけまねて、失敗だと騒いでる、自分自体が実は知能障害な教員・ネチズンたちが多数いますのが笑えますが)日本とは考え方の基本が違うのですが。

というのも、グーグルで指摘されたように、試験という課題は、それ自体が客観的指標である保証はなく、人によって適正があるというデーターがあるからです。
試験や学校の授業の成績アップは、そのタイプの課題が得意な人にはいとも簡単なことで、たいした労力は要らない。ホリエモンが東大の入試は6ヶ月で対策できた、あたかも簡単だったといっても、トータルでは能力がホリエモンと大差のない人であっても、超難関だったりするのは別に不思議なことじゃないんです。
 カメラや絵画でもあっという間にうまくなる人と、延々壁が突き抜けない人がいますよね。絵がうまい人が粘土工作がうまいとは限らないのと一緒。

試験の適正とか言うものも、設問方法や難易度設定とかの要素もあり一般論で試験はこうと簡単に定義できませんが、一種の特技と同じということ。

試験といったタイプの課題が得意であることが、実際の仕事(や独自性・創造性の求められる研究など)の課題の解決能力と必ずしも直結しないというデータが出てきたわけです。グーグルの調査では、いわゆる専門教育を受けた人と、そうでない人との仕事での判断は、99パーセントはまったく変わらない。しかし、残りの一パーセントで、専門教育を受けた人は無難にまとめてしまうものを、そうでない人は試行錯誤することによって新しい発見をなすことが多く、これが会社にとっての大きな躍進のきっかけになることが多いということでしたね。

実際は日本でも東大なんかはきちんと業績のでてる人ほど、偏差値と創造研究には一定の相関はあっても(そりゃまったく日本語習わないで日本語かけませんからね)、上位偏差値の差の20くらいではさほど関係ないのは理解していますので(極端な話50前後でも問題ない)、意外と教育に対する開放的な考えが、偏差値の頂点東大出身者から出るのは普通です。逆に中途半端な秀才ほど日本式の擁護に走るのは、自分を支えている価値観が崩壊してしまうから

もっとも日本では都合が悪いのか、こういう話はあまり伝えられませんけどw逆にアメリカでは、アジア移民が中心となっって、大学入試はペーパーテストでのみ決めるのが正当という動きもあるので、白人とアジア人の基本の違いなんですかね。

 

 

人文学科の縮小 文学部は要らない その2

以前の記事に関連して

堀江貴文(Takafumi Horie) @takapon_jp
「大学なんてブランド以外に価値ないので東大以外にいく意味ない」
https://twitter.com/takapon_jp/status/445055410093846528

「私は実質的な価値の議論をしてるのではない。あくまでも表面的な価値の話。でも日本の大学なんて表面的な価値以外に価値ないからね。」
https://twitter.com/takapon_jp/status/445057682202841088

という発言をして昨年話題になったホリエモン

日本の場合、大部分の人は、学問が好きで大学に進学するのではなく、就職の資格をえるために大学に通っています。といっても日本の大学の勉強と、企業で必 要とされる勉強は、似たようなところも多くありますが、目的が違います。どーしても日本で学問とか試験とかやりだすと、科挙文化の強い影響と、教育者自体 が結局は予備校文化の申し子なので、内容的にカメオタ学になりがちなので、このギャップが埋まることは無いのですけど。

その後 2015年には

堀江貴文のQ&A vol.532〜文学部はいらない!?〜 – YouTube

という動画も出し、「ぶっちゃけ、文学部なんて不要でしょ」とご本人が発言。これ東大だけは別格という言葉は無いので、東大であっても行く価値はない学部はある論調になってきてます。

ただ、ホリエモンは中学、高校に行くなとはいわないでしょ?ここが味噌 勉強は必要でも、大学受験のための「勉強のための勉強になって、本末転倒になっている日本の社会」をあざ笑っているのですよw

ホリエモンは東洋の科挙文化に始まっている「勉強が人生の始まりで終着点」文化を強烈に否定してるわけです。

科挙文化では決まったことが正確にできるかという才能は、役人=秘書官の才能としては必需品でした。日本のいろんな学問や資格試験も科挙の流れ=書記官、秘書官学科の文化を受け継いでいるままです。ですが、書記、秘書官になる人以外、それ以外の分野でその才能が必要かは?なわけ

さらにこういっていますね

「堀江貴文のQ&A vol.518〜失敗の確率は減らない!〜」https://www.youtube.com/watch?v=2xrtXJXpcY8

では、「学ぶこと原理主義」『学ぶこと=真面目でいいこと』みたいな考えに縛られてません?』と、なんでも勉強して下準備なんていうのは勉強じゃないというのは、創作分野では大正解です。

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マイクロストックでも、いつまでもネットを徘徊してママやパパの模範答えを探してるような人、カメラやレンズのスペックが異様に気になる人、学歴、資格にこだわる人、ライティングを使いもしないうちからいろいろ相談サイトで聞く人。もう終わってんですよ、さっさと引退しなさいw 「神社でストックフォト撮影するのに許可は要るの?」とか、自分でその神社に聞くことだろw

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とりあえず、「入門書を読んで基本的な使い方ができるようになれば、後は勉強はやめ外へでて実践しましょう。実践で必要になる知識は失敗しながらでも覚えればいい。そういう状況状況の違いから生じる細かいことまでカバーする本や学校はない」これマイクロストックの帝王・ユーリ・アーカスがアドバイスしてることですよ(彼の発言の中には学校で教えてる人は、写真家としての商売をやめてしまい、今現在のデザイナーの需要やトレンドを把握できていないなど、実務と離れていることが多いとの指摘もあります)。彼も写真学校修了ということになっているけど、実際は半年もたたないうちに、時間の無駄だったと一切通わなくなっています。学校(正規学生になる必要は無く、必要に応じて関連セミナーとかに参加するのでもいいわけ)で最低限の基本を覚えたら、学校より実践。実践をどうするかの判断力のほうが大事。

↑ホリエモンと同じこといってるでしょw(あっ、ゆとり教育と叩かれた教科内容の若干削減政策もそうだった。相も変わらず大学を出れば~の目先の受験勉強の障害としてしか見なかった旧世界の人間の大合唱で潰えましたが、その後終身雇用制度は崩壊し、せっかく就職予備校=「よい」大学に入った学生たちがあぶれるハメとなり。政府は再びAO入試推奨とか別の手を考えていますが、大学の授業の中身が変わらなきゃ話にならないw)

ホリエモンは大学は無駄とはいってるけど、高校行くなとはいっていない。

ユーリ・アーカースは英語が堪能ですが、TOEICやTOEFLの受験勉強にかまけていません(日本の駐在員で長年アメリカ人とやりあってきた人が、TOEIC受けたら350点とか、450点だったとか言う実話もあります、所詮試験は試験。TOEICの主催者自体が、結果はこういう形式の試験ではこういうスコアという、要は学習意欲の向上とかのきっかけであればいいような、あくまでの学習の参考目安なんです、といってますね)。

写真を撮らずに、(まあそれはそれなりに難解で、一見知的に見えちゃうのが、資格詐欺商法の特徴なのが厄介)カメオタ学に走ってる自称ハイアマチュアと、試験資格受験偏差値厨って、似てるところあるよねw

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さて、人文系の卒業を厳しくすればいい論議。これも無意味。日本の大学が考え出しそうなことは、せいぜいTOEIC900点とかの話になっちゃうから(写真でいえばフォトマスター一級以上かw)。日本のようにいつまでも目標設定が変えられない大学なら、何やっても一緒です。

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海外では日本の大学の人文科学に対する廃止と報じられたとありますが

Japan’s humanities chop sends shivers down academic spines Saturday 26 September 2015

(日本の人文学に対する大なた、アカデミックに激震)

http://www.theguardian.com/higher-education-network/2015/sep/25/japans-humanities-chop-sends-shivers-down-academic-spines

と出した記事の中で、”Japanese universities are cutting humanities and social sciences in favour of ‘practical’ subjects, sparking global concern”(日本の大学が人文社会学をより実用的な学問に置き換えるため削減という話題は世界を震撼させたとありますが、記事を読んでみると世界の人々が震撼したのではなく、英国で人文社会学を教えている人たちが震撼してるわけ。また日本の大学の人文社会学の実情に関しては、記事の中ではまるで関心が無く、もっぱら英国の大学の人文学も同じような道をたどり始めていることが主題になっています。

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ところでさ、大学文学部擁護する大学を出た人たちの、一般人のブログって、著作権の引用の範囲すらまともに習っていない人多すぎ。親告罪だからばれなきゃいいという考えもあるようですが、やっぱり大学教育は無駄だったといわざるを得ないよね。

国立大学に文系は不要 の議論について

さて、「定義あいまいな」学力(尺度によって何ぼでも変わるものなのに、明澄な定義すらろくに語られない日本社会の怪)*1とか、いわゆる高画素カメラ持ってへぼな写真しか撮れないのと同レベルで偏差値の大好きな日本社会をあざけ笑う記事を過去何回か書きましたが(欧米でも大学ランクなんて出しますが、向こうさんは日本人ほどスペック順位にこだわらないので、参考指標程度の代物です)

日本で、文部科学省が人文系縮小の通達を出したことで、騒ぎたいメディアと、一応教授たちによる「文学部廃止」とか騒がれるようになっていますね。縮小を要請すると、廃止にまで飛躍しちゃう論理の飛躍は大笑いですね。結局は、縮小を廃止だと騒ぎ立てて、自分のブログや、著作に注目を集めたい。貧困なる虚栄心でものかいてる人たちが多くいるわけ。また自分は大丈夫だろうが勢いで飛び火の火の粉がかかるかもしれないから、予防線として大騒ぎしておこうとか言う意図があるのかもw確かにこんな知識人に習っても得ることは少ない。

まあこういうのも既得権に胡坐をかいていた人たちが、自分の定年までは~と騒ぎ出して延命を図るパターンも少なからずあります。かつての国立大学を、国から半分独立させた法人化する過程でも、大量に反対する人がでましたが、現役の人はともかく、一旦大学の利権の外に出ると、後はだんまりになってる人たちが結構います。そのときは、大臣、市長とか、都知事、学長に対する痴話げんかまがいの人格攻撃(さらには文部科学省の役人は、官庁のおちこぼれがなるとかw別に官僚試験に通ったからといって、それ自体は所詮役人タイプ適正試験であり、官僚がすごい人間の証明ではないのですね。また、たいていの大学は官僚採用実績などを自慢たらしく宣伝し、文部科学省の役人も自分たちが教育した「(笑い)エリート(笑い)」の扱いだろw)にまで発展していた人も結構いて、お粗末な大学の一応教養人たちの本性が丸出しになっているものが少なくなく、当然一般人は誰も支援しなかったわけで、今の状態があります。

学習は必要なので、勉強しなくていい訳では無いです。ただ、入社応募資格とか、日本社会の大好きな横並び思想で書いてるのも結構あります。ですが、専門職でもないものの募集は、学歴じゃなくて、個人的にはセンター入試のスコア持ってきなさいでいいと思いますけどね(大学個別の基準でおこなう、たとえ筆記型テストであっても「傾向や要求基準」が「ばらばら」の入試の結果よりは当てになる)。いい加減な大卒より、中身のある高卒。学歴信仰は、結局は資格ビジネスの亜種の側面もあり、教育産業を社会に寄生させて肥大化させている側面もあります。無駄に教育に費用時間がかかることも少子化の遠因であることも確かですから。*2

いわゆる人文社会系の文化って、伝統継承・技術習得ではなく、コンテンツ発明ということであれば、箱物の中ではなく、自発的に生じてくるものです。官営でハコモノ文化振興なんかやるより、個人の才能を自由に発揮させるほうがいい。文化はたいていは大学とか権威的なところで発生するものではなく、下種な大衆文化から生れ落ちます。

 なんたら文化概説といいながら、その講義の実態は、自分の研究の中のさらに蛸壺の分野の話を一年してる教授とか。そういうのは特殊講義とかゼミでやることなんだけどなあ~。え、学問の自由が保障されてるんだから、講義内容はどんなものでもいいって?あんた、それは日本の憲法で定められている「あらゆる自由は濫用してはならない」という条文見たことないんじゃないの?教員が自分たちを鏡で見るほうが先だったりしてw

 写真なんかは日本で言えば、戦後カメラの普及で文化が成立しましたが、とうとう日本では、国立公立大学でまともな講座出来上がりませんでしたよね。漫画にしろ然り。大学人から見れば下種な大衆文化でしかない扱いであったといわれても仕方がない。日本の国立大学の人文社会学なんて、実際の人の営みの文化のごく一部しか扱っていません。

それにいわゆるカメオタ研究では無い、知の発見という意味ではもうやりつくされて行き詰っている分野、人文系にはたくさんあります。いわゆる新しく生まれる文化には無頓着で、自分たちの間でだけ崇高なアカデミックな対象と定めた、いまや化石になりつつある「極狭い人文社会」の世界のさらに僕ちゃんの大好きなジャンルの【研究】はこれ以上国費で支える必要もない。【一部】の国立大学の人文社会学が崩壊したところで、実際は何も変わらないのですよ。

アニメなんか、ようやく国が文化として認め、音頭とって海外輸出とか言い出してから、逆に売れなくなってますよねw

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さてと、

人文系の縮小要請は、内閣の閣議決定による第2期教育振興基本計画(対象期間:平成25年度~平成29年度)に基づいているわけです。この文章の内容を大学関係者に告知してるわけで、マスコミが捻じ曲げた内容を報道したともいえます。
文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/

http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/detail/1336379.htm

ネチズン(これ一応教員とか、教授が結構いるんだわw)たちによれば、この改革は、安倍首相の学歴コンプレックスから起こされたとか、妄想に発展していますが、文部科学省の基本方針を見ましょう。

http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/06/14/1336379_02_1.pdf

にその内容があるわけですが、大事なのは、社会需要にあわせた学科再編とあるだけで、人文学がどうのこうのなわけでは無いです。理系も需要がなければ閉鎖というわけ。急激に人口が減り続けている中、直接的な解雇は難しいので、無理な数値目標要求をして、さらに予算で締め上げて採算の合わないところは自主的に消滅させるという形で整理なんだというのが国の思惑だといえば、そのとおりですが。役人の立場で言えば予算配分ノルマがあり、国会で議決された予算範囲内でしかものが言えないのでこういうことになるのは当然。さらに人文の削減は、文部科学省がどうこう言う以前から、自発的に削減の判断をしてるところが出始めていた(産経記事)。別に文部科学省から肩たたきしなくても、自発的に始まっていた流れです。

文部科学省は学費がただの義務教育期間の質の向上を訴えているわけです。そもそも日本の義務教育は、受験文化にひん曲げられて中学から機能しなくなり始めていますが、内容的にはほかの国より進度は早く、中学を出れば、たいていの人がかかわるサービス業とかの、非専門職以外の仕事で必要とされる教養が身につくようになっています。

まあ、文部科学省は、物事を誇大に書き立て炎上商法で注目と保身を図る人たちへの反論として、

以下の文章を掲載しました。http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/10/01/1362382_2.pdf
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*1国語力を測るとして

1)お習字学校
2)脚本学科
3)自筆
4)ワープロ利用可

のそれぞれで、目標とされる能力=学力は変わります。1)の能力が下がっても2)の能力が上がれば問題ないわけです 文科省と教育マスゴミ=マスコミ、一応教授は自分の基準ではなく、外国の学力テストが~が気になっているととが多いです。が、仮に、日本で必要とされる【学力】が【お習字学校】のものであれば、【脚本学科】の【学力】を基準にしたほかの基準でどういう評価が出てもまったくかまわないわけです。

どうも文部科学省http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/06/14/1336379_02_1.pdfの文章からは、【これからの社会には4000万画素のカメラが必要なのである】*実際は600万画素、せいぜい1200万画素でほとんど用が足りるけどwといった感じのいかにも、スペック厨の教育版カメオタ臭がぷんぷんしてますけどw

前にも書いたことですが、ネットでえらそーにしゃべってる自称教養人や、役人、政治家、一応教授・教員たちに首に縄つけて、君の「学力」で魅力のあるコンテンツを創作しなさいとテレビ中継したら、みんな「感性が~あ」といって逃げ出すことは請け合いです(写真や美術やったことなくても、数学の幾何や物理の知からでも創作のヒントは多くあり役に立ちますよ(ただし数学を知る必要があるというのではなく、ほかのどんなジャンル(ラーメン職人でもいいわけ)からでも取っ掛かりがあり、到達への道筋に正解がないから創作はややこしいのです)。思いつかないならただの馬鹿ですけどw)w前に京大の特色入試をあざけ笑ったのは、学生に魅力ある教育カリキュラムを作れるかの課題を出すとかいいながら、自分たちの顔ぶれを見てそれが自分にできるのか疑わしい連中(実物と付き合いあれば使えないの丸わかりの多いですw)が出題するわけですからw橋下大阪市長の大阪都構想を馬鹿にしていた京大教員がいましたが、自分たちの改革となると、単なるカメオタスペック改革入試案しか出せない「特色」入試とやらを提唱してるわけでw

優秀なカメオタ学力を身につければ、カメラで撮影する学力の達人ではないのは、カメオタにはほとんどカメラマンとして名をなした人がいないことからもわかります(海外で著名な写真家たちの実習では、今では必要最小限の極簡単な撮影技術しか身に付けさせず、あとは実践で、その場その場で工夫していく力を養成していきます)。

*2 もう限界!?年収の39%が教育費!http://allabout.co.jp/gm/gc/372352/

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おまけ よくわかんないんだけど 下みたいにブログとかに駄文、あちこちに落書きかいてるだけで「まともな」学会研究成果を上げない人が、なぜか識者のように「一応自称高級」メディアに論客池田信夫で呼ばれてるかも不思議ですねえwいらない文系一応教授の典型の一人が、ほかの教授を老害と呼びつけてんだからwまたナイスの票が多いのもなぞですなあ?所詮は自分デもの考えて行動できないこの国の現象らしいです。文部科学省式にいえば、池田信夫なる男のような自称「学問」は、私学でやってよということでしょうねwまあ、記事の中では推薦やAOで入学した早稲田の学生は早稲田Bとか経歴に書けとか、2ちゃんねるの学歴厨と同じことかいてますが、経済学者として認められる学会業績も無く、おこがましくも経済学者名乗ってる自分自体と、いちいち識者扱いに奉ってるポンコツnewsweekjapanの編集者自体もAO高級触媒=マスゴミはどうなのよ(まあ編集者も18歳の入学時の喜びの中で生活してる学歴ニートなのかもねw(俺の時代は難関だった~)早稲田で活躍してる人ってアホ大学時代のほうが多かったようなw東大も旧帝国大学で事実上内部無試験組が多かったほうが個性的な人いたし)w

AO入試を馬鹿にする割りに、自分自体がAO経歴経済学者という自己矛盾のコラムは下でどうぞw

文科省が打ち出した「文系大学はもういらない」の衝撃 2015年06月25日(木)19時50分 //www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2015/06/post-937_1.php

古典を読む意義とは? 読書の喜び 目的もなくただの名作信仰なら、マンガ読んでるのと大差ないですw

東大中退のホリエモン氏が、無駄な学歴はいらんでしょとあちこちで話をしています。シリーズとして、大学で習うものが役に立つかの考察。

大学教育は必要かの議論とともに、いろんな筋では古典を読まない経営者は世界に通用しない.とかいう文章も目立ちます。

どんな古典を読むかという議論はなく、ただ古典。これだとカメオタの機材自慢に通じる役に立たない学力理論になりがち。要はいっぱい単語を羅列するが、アウトプットはお粗末な、ただの秘書官。

古典は優れたものか?

特に日本の教養人が好きな類の古典。

徒然草や源氏物語も今でこそ古典ですが、書かれた当時はインテリの下種暇つぶし娯楽文章=大衆文学だった。

本来の書かれた動機から言えば、古典名作などといわれるからといって、内容的にマンガより高級というわけじゃないです。「ねずみ男の冒険」という水木しげるのマンガなんか、著者の敗戦後の混乱・貧困時代の経験を色濃く反映して、人間の深層心理にある本音がどろどろ出てきまして、下手な古典名作より深い人生哲学を見せ付けてたりするんですし。

マンガ読まずに古典読んでいれば、想像性が豊かになり、賢くなるとかいうのは、うそw

古典と呼ばれるものは、長い歴史の中で、その時代の比較的ましなものだから生き残ってきた。ピンきりの現代にあふれる小説の類から良作を自分で探すより、古典と呼ばれるものを読んだほうが、はずれが少ないですよ位の価値しかない。

また、学校人が薦める古典以外の古典を含めた読書(日本の大学人・自称教養人の趣味からすすめる古典と、主に西洋で海外で人と交流、広くビジュアルを売るために役に立つ、読んでおいたほうがいいような古典は、たいてい違うものですし(当方としては、聖書、ギリシャ神話、ローマ神話、北欧神話がいいですね。まあ、ダイジェスト物語風に書き砕いたようなやつでもいい)、彼らにはそういう古典の知識は欠如していたりします)はいいことですが、活字しか見ない、読まないのは知識が偏る。

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追記

また、「古典を読んでることをはったりに使う」自称教養人が現実には無数いることは、カメラの例を考えればよくわかることです。写真の先人たちの撮影技法などをすらすら語り、美麗字句が並んでるが、中身は無い、実際にその人物が写真を撮影すると、まったく感心しない。自分の中身をごまかすのに便利だったりするのが古典の知識のひらけかしであることもあるので、古典を読めばいいことはありますが、古典を読まなきゃとかいう言葉を連発する相手は要注意。子難しいことをやっていますとアピールして、それを生かしたアウトプットがまったく出ない(あるというのでよく読んだらただの漫談とかw)人たちの詭弁というか自己弁護に使われることもあるのです。

ある意味写真やビジュアルって、恐ろしいんです、いくら言葉で飾ろうが、その人物の薀蓄の実力は、作品という誰の目にも明らかに見えてしまうわけ。好き嫌いはあっても、いい作品はある程度自分で創作するようになると、いい作品だといえます(ピカソも昔は何がいいのかわからなかったですが、自分でいろいろやると、ピカソの意図が見えて、それはそれでいいと思うようになっています。ただ大巨匠として持ち上げられるほどかは?の部分もあります)。活字文化なら一見高尚な単語並べて相手がわかりにくくなってごまかせても、ビジュアルだとそうは行かない。現代ではネットにより、実に簡単に相手の本当の実力がわかりますので、まあ難しい時代ですね。

何度もいいますが、写真とかの場合、創作写真というジャンルなら、芸術の中でも、訓練を要するスキルを身に付けるのは容易で(特にデジタル時代になってから)、おつむのほうが大事なジャンルになっています。まあ、ほかの創作ジャンルでも、立案の段階であれば、おつむは大事なんですけど。

いろんな知識は役に立つので、確かに学んで無駄なことは無いんですが、こういうアイディアをビジュアルとして落とし込む知的分野だと、実際頭の知識を使えばできそうなことができない、頭の悪い、実際は口だけ「教養人」っていっぱいいるもんだということがよくわかりますw使えない知識だけ詰め込んだって無駄というのは、少なくとも創作にかかわる仕事で、依頼を受ける立場ではなく、自分で立案完成させる立場でものを行う場合は、あながち間違いでは無いです。

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古典は翻訳文ではなく、原典で読むという言葉があります。翻訳文は翻訳者の主観や文化の差によって、内容が正しく伝わっていないことがあるからです。確かに場合によっては、原典に当たる作業は必要なのです(特にマスコミや、学者のものは要注意w元ソースには、見事に逆の事書いてあったりするw原典主義とかいう学者とかにもw若いときは原語読んでたと書いていたのに、年取ってから再販したのには「何訳を中心に、原語を適時参照した」と、過去の欺瞞を恥じたのか訂正してる人もいたなw)。ですが、死語となった言語の解釈をするツール、辞書、文法というのは、よく見てみれば、実際は非常にお粗末な状況で、そういうものから正確な解釈はほんとにできるかという疑問があります。また、現代の生活はかけ離れて、どんどんもとの意味を追求することは難しくなってきています。かろうじてその時代の用法が、活字としてではない知識(伝承や、風習とかに解釈の手がかりが残っていたりして)であった時代の人がやった翻訳より、そういうおぼろげな手がかりすら消滅している場合、今のほうがもっとひどいものが出来上がる可能性もあります。

さらに活字というのは、人間の思想や感情を表現する手段としては、本来不完全な代物です。言語・文字は記録や伝達触媒として便利なため、長年利用・発達してきました。が、活字にされたものは、原著者の意図や、現実とは違った読者側の解釈を幾通りにも生み出しやすい欠点を持っています。

こういうことも考え、活字情報といった「文字に頼る」ことの弱点も指摘しておかないと、活字を読めばなんとやらの意見は、ただのカルトにしかなりません。

追記・活字そのものは、本来記録伝達の一手段にしか過ぎません。それがいちのまにやら、活字=アラーの神になってる、カルト自称知識人いっぱいいますねw

まあ、知識人とかに首に縄つけて、ビジュアル創作させてみると、いかにその知識が身についてないか(現実世界では考えをビジュアル化=具現できたものが勝者です。学問も西洋の意味で言う学問なら、創造できて始めて学者といいます。ものをよく習得してるだけじゃ、秘書官でしかないです)の実験場になるし、面白いですよw

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(追追記) 信州大学の学長が今年の入学式でスマホを捨てて本を読もうといったらしいですが、スマホ(PCとかも)だとどうしてもエロサイトのような場所に行きがちで、しかもメールが頻繁に入ったりするとそっちにかまけて、あまりよろしくないという発想なら、理解できますが、ただ「脳の取り込み情報は低下する」という、主観で、スマホを捨てましょうじゃ、浪花節。本もスマホも情報を得る端末にしか過ぎませんし、スマホの何が悪いのか、スマホだと情報が脳に定着しないとか言う学長の意見は、ただの個人的主観。

くだらない自称名作古典を読むより、内容が優れたマンガがあればそれを読むほうがいいのは、スマホと活字本との関係でも同じ。優れたものは、映画もドラマも演劇も、小説でも、何でもいいから吸収すべし。

ひょっとして、学長自体がスマホもってるとエロサイト眺めてやめられないから、学生にそういったのかもしれませんなあw http://www.asahi.com/articles/ASH455FQGH45UEHF004.html  学長の発言は「スマホ依存症は知性、個性、独創性にとって毒以外の何物でもありません。スマホの「見慣れた世界」にいると、脳の取り込み情報は低下し、時間が速く過ぎ去ってしまいます。 「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」 スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。」ということですけど、これって昔、ワープロ導入期、パソコン導入期とかにも同じようなこといっていたのがいましたね。

大学人とかの発言では、頻繁に定義のあいまいな「学力」が、よく用いられますが、こういう用語を頻繁に使うのは日本だけともいえます。たとえば、TOEICで900点取っても、すぐれた英語論文がかけるかは別だし、また、TOEFLで高得点取る学力があるかも別だし、東大や京大の英語の入試に通る学力がある保証は無いですし、東大や京大の入試や授業の英語が得意でも、外国の大学で英語が使いこなせる学力がある保証はありません。またケンブリッジ英検とおったからといって日本の英検に通れる学力があるとも限りません。

前の記事でも書きましたが、日本のエリート大学で難しいこと習ってきたよと海外に行ったら、向こうで評価される類の能力ではなかったため、不遇になったとかいう話も、実際は珍しくありません(まあ、そのまま落ち込んで欝になる人もいるし、なんとか学位もらうけど海外嫌いになったりするパターンもあり(日本式マンセーをはじめ、「僕は優秀で日本式は公平なのだ」式の日本の殻にこもる。海外の学会誌に査読が通らない人にもおんなじ傾向あり)、時間がかかっても適応していく人もいます)。こういう人は、「僕のほうがレベルが高いのに」と思い込みがちですが、このブログで何回も言うよう、カメラやる人には、写真撮影に結び付けて言えばわかりやすいのですが、海外の教授たちからは、「きちんとした写真もとれないうちから、小手先のことばかり異様に詳しいカメオタが来襲してきた」状況だったわけです。

いかなる試験も、学力というよりは、特定の判定条件の習熟度を測るものでしかなく、しかも、その結果はあくまでも参考指標でしかありません(個人個人で、試験のタイプによる相性というものは残念ながら存在します)。また英語論文作成試験をやっても、辞書ありと辞書なしでは条件が異なるし、辞書なしで高得点をとった人が、辞書が使える現実社会では、辞書使いながら書く人に、内容、論旨で負けることは普通にあります(国選弁護士をそろえた国が、弁護士も付けないその辺の主婦に裁判で完敗することは、日本でも普通にあります)。

しかし、定義すらあいまいな「学力」という言葉は、自称知識人の中では、まるでアラーの神のように唱えられているのです。

よく、「日常会話はできないが、高級な英語を知ってる僕教養人」という発言が、活字触媒にはあふれていますが、これは誤り。「その人たちには日常生活で不自由無く英語を利用する学力は無い」のですから、その人たちには学力があるといいきれない。